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アカデミッククーデター

  鳥羽 千璃香

第1話「面白い酒」

 「こんな所でお前と飲むとは思わなかったなー。それにしても落ち着いた雰囲気の大人のバーだね。」。「津山の自宅は茅ヶ崎なんだから、藤沢なら一駅で直ぐ出て来られるだろう?」。「まあ、ここからならタクシーでも帰れるからな。」。

「お客さん何をお作りしましょうか?」。「そうだなー、そんなに色々知っているわけじゃないし・・・・。」。「おい、マスター、俺は新宿から満員電車に揺られて来たので喉が渇いた。先ずビールでも一杯欲しいね。」。「了解しました。」。

「斉木の甥っ子にしてはイケ面で、はきはきした明かるいナイスガイじゃないか。」。「有難うございます。」。「こら、調子に乗るな。」。「すいません。自分は褒められると、つい自慢のカクテルをサービスしたくなっちゃうんですよ。」。「だからなかなか儲からないんだよ。」。「まだ始めたばかりですから、皆さんに楽しく飲んで戴いて、喜んでもらえればいいんですよ。そのうち売り上げも増えますよ。」。

「と、まあこんな学生ベンチャーですから。」。「何? まだ学生なの?」。

「これ自家製のレーズンヨーグルトのお摘みです。ビールに合いますよ。どうぞ。ええ、実は留年休学中です。ITベンチャーを友人と起業して、運よく時流に乗れて儲かったので、今度は違ったフィールドで人と接することをやってみたいと思って、去年の6月からここを借りて開業しているんです。」。「随分雰囲気のいい落ち着いた感じの店だね。」。「実は元々居酒屋だったのを、カウンター席主体のカクテルバーに改装したんです。」。「ほうー、凄いねー。」。

「マスター、ビールで喉の渇きを癒したから、この後は美味しく飲めるもの何か適当に作ってよ。」。「はい、かしこまりました。」。

 「ところで斉木、今日は何で俺と飲もうなんて気になったんだ?」。「うん、実は俺の大学時代の友人が現在都内私立の或る大学の非常勤講師をやっているんだ。彼は大手重機械メーカーの研究部長を辞めて地方国立大学の教授に転身したんだが、実家に不幸があって5年で退官した後、現在の私大から声が掛かって目下非常勤をしている、真面目で優秀な人間だ。」。

「何を教えているの?」。「何とその前の国立大学で教えていた法文系の授業なんだよ。彼の名前は北原と言うんだが、その彼と先月研究室の同期会の後、数人で大岡山で飲んだんだ。かなり酔いも回っていたんだが、北原が愚痴を零し始めて、最後には怒り出したんだ。話の内容を聞いているうちに、皆も酒の勢いで北原に同調して怒りを爆発させたと言う次第だ」。」。「ほうー、それは面白そうだ。中身を聞きたいね。マスター、このカクテル飲みやすくて美味しいね。同じものをもう一杯。」。「はい、かしこまりました。ロングサイズにしましょうか?」。「いや、ショートで結構。次は違うのも味わいたいから、少しずつ。」。「了解しました。」。

「で、その内容とは?」。「新学期になって授業当日、講義室確認のために事務局に行ったら、授業担当が何と、北原の名前が消えていて、内山と言う名前の非常勤に変わっていたと言うんだ。しかもその学部、学科からは事前に、首のすげ替えをすると言う理由も話も北原になく、授業当日に初めて知ったと言うんだ。兎に角ビックリしたようだ。」。「成程、これはネタになりそうな面白い話だ。マスコミが喜びそうだね。」。「そうか、津山に話せば興味を示すかと思ったが、酒の肴になりそうかね?」。「なるなる。誰かが或る意図を持って仕組んだとしたら、恨みつらみの内部抗争のとばっちりを受けたとも考えられるね。まあ、大学は世間知らずの集団の陰湿な世界だからねー。」。「そうか、兎に角北原は大学側の卑劣、非常識な品位のなさに怒りまくっていたよ。」。

 「マスター、何か摘み欲しいな。」。「野菜スティックをお出ししましょうか?」。「うん、頼む。それとチーズ・クラッカーある?」。「了解です。」。「まだマスターの名前を聞いてなかったよね。」。「義允と言います。」。「了解、でもここじゃマスターの方が合ってて、名前を呼ぶより様になってるね。」。「有難うございます。」。

「ところでその彼は今どうしてるの?」。「真面目な奴だから、文部科学省か新聞社にでも投書しようなんて考えているようだけど。その方面の人脈は色々ありそうだけどね。」。「興味ある話だから、一度北原さんとやらに会って話を聞いてみたいね。」。「そろそろネタ探しの虫が騒ぎ出した?」。「そう、俺も若いイケ面の作る美味しいカクテルに酔ってきた勢いかな。」。「OK、じゃあ、近いうちに新宿辺りで設定するよ。」。

「ところで、義允マスターは何種類くらいのカクテルを作れるの?」。「250種類くらいはお作りできますよ。レシピー見ながらなら、その倍は作れると思います。」。「たった1年で凄いね。」。「いや、このくらいは当たり前みたいですよ。」。「じゃあ、レインボウカクテルでも作ってくれる?」。「承知しました。ただこの前、伯父さんにも作ったんですけど、シェーカーを振って少しづつグラスに順に注いでいくうちに、直ぐに混ざり合ってしまうんです。旨くできなかったらご容赦下さい。成功率は60%くらいなので。」。「綺麗な虹が一瞬でも鑑賞できれば素晴らしい一品だよ。別に気にしないで気楽に振ってみてよ。」。「分かりました。有難うございます。」。「タバコ吸っていい?」。「あっ、済みません。灰皿お出しするのを忘れてました。ここのところタバコを吸われないお客様が多かったもので、つい下に置きっ放しにしていました。どうぞ遠慮なくお吸い下さい。常時換気扇回してますから。」。「禁煙カクテルバーでなくて安心したよ。」。「いやどうも失礼致しました。流石伯父さんのお知り合いですね。」。「おい、斉木、どういう意味なんだ?」。「想像に任せるよ。」。「斉木は甥っ子にもお前の性格をがっちり把握されているようだな。」。

「お待たせしました。何とかできました。」。「おっ、綺麗だね。口を付けるのがもったいないくらいだ。」。「僅かな粘度の違いと比重差だけですから、直ぐに混ざり合ってしまうんです。」。「何だかハッピーな気分になるねー。口当たりがいいよ。」。「満足して戴けて良かったです。」。

「俺、来月沖縄にガンガラーの谷を見学しに行くんだけど、一緒に来ないか?」。「何、それ?」。「実は俺も知らなかったんだけど、50万年前の鍾乳洞跡と古代人の居住跡があるそうなんだ。それに、歩く木と言われているガジュマルの木が生息してるそうだ。」。「何じゃ、歩く木とは? かなり酔いが回ってきたな。」。「木が伸びてその先端が垂れ下がり、地上に着くとそれが根を張って元の幹が朽ちることによって、木が少し移動すると言うことらしいんだ。長い年月をかけてこれを繰り返しているうちに場所が少しづつ移動するから、現地では昔からこう呼んでいるそうだ。」。「へー、不思議な木だな。帰って予定を調べて連絡するよ。」。「世の中には想像もつかないような不思議な木があるんですね。何か変わったお酒でもお出ししましょうか?」。「そうだね。カクテル以外で何かある?」。「知り合いが持って来てくれた山葵味の焼酎がありますけど、トライされますか?」。「ほう、そんなのあるの? 珍しい焼酎だね。一杯戴こう。「水かお湯で割られますか?」。「いや、折角の珍しい焼酎だからロックで飲みたいね。」。「了解です。」。

「確かに木も生物だから歩いても不思議ではないわけだ。固定概念が色々な見方や発想を邪魔しているのは事実だね。仕事に関しても。お酒の世界にも山葵味があっても不思議はないわけだ。」。「伯父さん変な理屈ですね。お口に合うかどうか分からないのでシングルにしておきました。」。「サンキュー。」。「如何ですか?」。「成程、最後にピリッと来るね。面白い味だ。悪くないよ。」。「良かった。有難うございます。」。「じゃあ、俺も飲んでみよう。同じシングルのロックで。」。「はい。でも伯父さん随分顔が赤くなってますけど大丈夫ですか?」。「青くなってないから大丈夫だ。」。「もしきつくなったら母に連絡しますから、家に泊まって行って下さい。親父もいますから。」。「その心配は要らないよ。明日午前中に出掛けなければならない所があるので、今日は三鷹に戻るよ。」。「そうですか。無理しないで下さいよ。親父から伯父さんに余り飲ませるなと言われてるもんですから。はい、ちょっと少な目のシングルロックです。」。「サンキュー。」。「うん、確かに山葵の味がすると言っただけの焼酎みたいだね。でもユニークでいい発想だ。」。「相変わらずお前は素直じゃないなー。」。「音が正直なだけさ。」。「ま、そうかもな。認めておこう。」。「お二人の関係は面白いですね。」。「そうなんだ。中学時代からの気の置けない奴なのさ。」。「何かあるとこいつに呼び出されるんだけど、馬が合ってるんだろうね。」

「ところで北原の話に戻るけど、津山の人脈で文部科学省のトップの知り合いがいたら、この大学の内部状況を掴んでおいてくれる? 可能な範囲でいいよ。」。「OK。」。

「いらっしゃいませ。奥のカウンターにどうぞ。お久し振りですね、しかもお二人揃って。」。「海外出張でばたばたしていたもんでね。」。「美味しいお酒を楽しむ暇もなかったですか?」。「商談終えて、毎晩ホテルの部屋の冷蔵庫と、ミニバーのウイスキーだけのバタンキューだよ。」。

「じゃー、早くから飲んでいる我々はそろそろ引き上げますか。」。「そうだな。俺に合わせて藤沢にしてくれたけど、お前はこれから2時間近く掛かるんだろう?」。

「マスター、帰るよ。」。「はい。あっ、1万円でOKです。有難うございます。」。「津山、今日は俺が出すよ。いつも世話になってるからな。」。「よく言うよ。じゃあ、今日は素直に甘えよう。」。

「お気をつけて。有難うございました。」。

「今日は興味深い内容の話しを摘みに、なかなか面白い酒だった。サンキュー。」。「じゃあ俺は小田急で。又連絡する。」。「それじゃあ気をつけて。」。

 

第2話「巷間鼎談」

「あっ、北原? 斉木だけど。」。「あっ、違います。父と代わります。」。「もしもし、北原です。斉木どうしたの?」。「いや申し訳ない。息子さん声がよく似てるから間違っちゃったよ。実は先日の同期会の後、大岡山で飲んだときに、北原えらく憤慨していただろう? ちょっと気になる話なんで、俺の中学校からの悪友で、現在フリーライターをやっている津山と言う奴と藤沢で飲んだときに、お前の話をしたんだよ。」。「ほう、それで?」。「そいつは社会派のフリーライターと言うことで、それなりに結構活躍している真面目な奴なんだ。話にえらく興味を示して、是非本人からもっと詳しく話を聞きたいと言うんだが、どうかね?」。「うーん、記事にでもしてくれるってことなのかな?」。「迷惑なら無理しなくていいよ。」。「うーん、でも社会派と聞いて、悪いようにはしないよな? 俺もこのままにしておくのは悔しいし、正義感からも大学を正したいし。分かった。津山さんとやらに会ってお話ししょう。」。「OK。じゃあ、これまでの経緯を整理しておいてもらって、北原の都合の良い日時をメールで教えてくれるか? 

津山と調整して連絡するよ。」。「それじゃあ、また。」。

数週間後、

「やー、お待たせ。」。「紹介しよう。私の中学時代からの友人で津山さん。こちら大学の研究室同期の北原さん。」。「初めまして、津山です。今日はわざわざ出て来て戴き済みません。」。「北原です。斉木からお聞きしました。宜しくお願い致します。」。「じゃあ、取り敢えず静かに話しができる喫茶店に行きましょう。」。

「斉木からお聞きしたんですけど、フリーライターをなさっているんですか?」。「ええ、大学を卒業して地方の新聞社に入ったんですけど、5、6年も勤めていると物足りなさを感じるようになって辞めたと言うわけですよ。その結果、形の上ではフリーライターと言うことになったのが、正直なところなんです。」。「でもそれで食っていけるんだから凄いですね。」。「たまたま或る地方の建設工事に纏わる地方官僚汚職の実態を暴いたのが注目を浴びて、それ以来社会派なんてレッテルを貼られていますけどね。色々飛び回ったり裏を取ったりと、はたから見ているほど格好いい商売じゃあないですよ。」。「そうですか。でも自分の考えや価値観、興味で自由に動けるのには憧れますね。」。

「この喫茶店だ。今は健康のため全員タバコ辞めてるよな? 人がいない奥の方の隅の禁煙席にしよう。」。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」。「私はホットのアメリカンコーヒー。」。「俺はエスプレッソ。」。「私は紅茶にして。」。「かしこまりました。」。

「津山には北原の話をほぼ聞いた通りに伝えてあるけど、酒の席で途切れ途切れに話しているから、確認の意味で再度お前の口から順を追って話してくれ。」。「うん。かいつまんで言うとこうです。現在都内の私立大学に、週2回ほど非常勤で行っていることはお聞きになったと思いますが、これまで3年間継続していた、法文系のリスクマネジメントに関する授業担当を、私に何の理由、一言の事前の説明もな、他の非常勤の人に首の挿げ替えをしていたんです。そのことが分かったのは、何と授業当日の午前中なんです。事務局に行って知ったんです。いやー、ビックリすると言うより唖然としましたよ。」。「そりゃあそうでしょう。」。「それでどうされたんですか?」。「取り敢えず事務職員に何時変更したのか、誰が私の授業を肩代わりすることになったのかを聞きました。内山と言う非常勤の先生で、11月には学部から事務局宛に、非常勤講師変更の通知が来ていたと聞かせれて、更に2重のビックリでした。」。「北原さんに対して失礼千万な非常識行為ですね。」。「帰宅して直ぐ学長宛にメールを入れました。」。「どのようなことを書いたのですか?」。

「お待たせしました。コーヒーと紅茶です。」。「有難う。ちょっと物を拡げるからここに置いてちょうだい。」。「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ。」。

「プリンターで打ち出した内容がありますからお見せしましょう。」。「拝見させてもらいます。」。

下記はメール文章。

“学長殿
 文理学部と法政学部で非常勤をしている斉木健一と申します。唐突なメールで失礼致します。
 本日46日(月)午後にビックリ仰天したことが起こりました。法政学部ビジネス学科「リスクマネジメント」の授業開始の前に法政学部事務局に寄ったところ、「リスクマネジメント」は今年度から別の先生(非常勤の内山先生と言う方)が担当されることになっているので、斉木先生の授業はありませんと言われてビックリした次第です。
 今年度の本務学部である文理学部からの授業依頼通知に「リスクマネジメント」は記述していなかった筈ですと言われて、確かに文理学からの通知には工学関係の授業依頼しか記載されていなかったのは記憶していますが、当然法政学部から別途連絡が来るものと思って、そのまま私も忘れていて本日の授業に臨んだ次第です。シラバスは昨年度と同じなのでそのまま変更せずとしていました。私を呼んで戴いたビジネス学科の先生が退職されたので、誰かが私の代わりにと首の挿げ替えをしたのでしょうが、せめて一言、私に直接どう言う理由で辞めてもらうことになったと言うことくらいは、法政学部の方から説明と挨拶があって然るべきだと思いますが、如何でしょうか? これまで3年も継続しているので、しかも法政学部からも辞めてもらうとの話は一切ないので、当然今年度も継続するものと思って授業準備をしますよ。
 国立の大学院で「起業論」と「リスクマネジメント論」を5年間教えており、ベンチャー企業も数社立ち上げたり(昨年もソーラー発電のベンチャー立ち上げ支援をしています)、各方面から依頼講演を受けたり、依頼執筆をしたりと、工学部出身の知識も活かした融合的な分かり易い基礎教育を、就職対応も意識した形(企業トップや外資系企業の社長、或いは逆に派遣社員等もお呼びして、活きたリスクマネジメントを肌で感じてもらうことも)で、授業スタンスをお示ししてこれまで進めてきました。熱心さの余り、不可点にする学生数が多くて余り法政学部には貢献しなかったと採られたのかもしれません。尤も不可点者数についても、その都度事務局長らの指示を仰ぎながら、講義室の広さも勘案しながら人数的に授業に支障が出ない範囲で対応していました。このように、大学側の指示に従って合否人数を決めていたので、何ら問題はないと考えています。翌年又、中間試験と期末試験を受けてリベンジすれば良い訳です。しかも4年間でしっかり習得してもらえれば、物凄い力を社会に出たときに発揮できます。従って就職内定者には合格点を与えて十分配慮もしています。
 
事務職員の話しから考えると、昨年の後期に入った頃には、既に特定の人物の間だけで首の挿げ替えの話しがあったと思いますが、その時点で本人に報せないでこっそり人の首を切るとは、正に卑劣なやり方と言わざるを得ません。
 
兎に角、憤慨すると言うより、ただただ唖然とするばかりです。国立の縦割り組織でもこんな失礼千万なことはしません。この大学の法政学部も、「大学常識、世間の非常識」の世界なのででしょうかね。”

読み終えて、

「いやー、お気持ちよく分かります。こんな非常識なことを外部の人に対してやる大学があるんですか。いや、本当にビックリしました。受け取った学長さんもビックリしたでしょうね?」。「ビックリしてもらわないと困りますよ。大学の中が如何に非常識な社会とは言え、外部の人間に迷惑を掛けるような学部の長にはそれなりの対応を採ってもらわないと、こちらとしても気が治まりませんよ。」。「ごもっともなことです。その後、大学側から何か連絡はあったんですか?」。「後日親しい文理学部の岸田先生に状況をお聞きしたところでは、直ぐに学長が不祥事を起した法政学部長に真相解明と経緯、私への釈明・謝罪を指示されたようですが、未だに動きはありませんね。どうやって繕うか画策してるんでしょう。」。

「そう言えば津山に電話したときに、文部科学省の上の方の人脈を調べておいてくれと頼んでたけど、誰かいた?」。「強力なのがいることはいるけど、このような状況を話していいもんか、ちょっと躊躇するね。」「そうだな。この内容だけだと受けた方も困惑すると言うか、かえって迷惑するかもしれないね。」。「北原さん、あなたを今の大学に呼んでくれた先生は辞められているとのことですが、その先生に事情を話してみては如何ですか? 何か学部内の知らない情報が入るかもしれませんよ。真相が明きらかになると色々面白い手が打てますから。」。「分かりました。これで引き下がったのでは、折角体験した学内恥部のネタがもったいないですかね。」。「でも慎重にやって下さいね。」。

「ところで、北原の息子さんの声はお前そっくりだね。いきなり本題に入るところだったよ。」。「まあな。でも色々資料を用意しておけと言われて、今日少しは役に立って良かったよ。」。「話も一段落したところで、軽く喉でも癒して行きますか。ここを右に出た地上に、居酒屋があるからそこに行こう。ここの勘定は俺が払っておこう。」。

「ご一緒で宜しいですか。有難うございます。」。

「こっちだ。」。「ところで津山、来月沖縄に行くと言ってたよな。俺もその頃なら空いてそうだから同行させてもらうよ。」。「沖縄ですか。羨ましいですね。」。「頼まれ取材も兼ねての遺跡見学なんですけどね。」。「私は沖縄には行ったことがないので羨ましいですよ。」。

「この店です。どうぞ。」。「いらっしゃいませー。3名様ご一緒ですか?」。「奥の空いてる方にお願いするよ。」。「どうぞこちらへ。」。「飲み物は何にさいますか?」。「先ず生ビールの中を3つ。」。「有難うございます。」。

「沖縄に貴重な遺跡があるんですか?」。「ええ、ガンガラーの谷と言う所で、ミナトガワ人と呼ばれる古代人の居住跡が発掘されているんですよ。まだ続いているんですけどね。北方系より古く、日本人のルーツではないかとも言われている遺跡なんです。」。「そうですか。何かロマンがありますね。」。

「お待たせしました。生3つとお通しです。」。「それじゃー、適当に頼んじゃうよ。枝豆、大根サラダ、鳥のから揚げ、水餃子、ししゃも、冷やしトマト、取り敢えず一つづつ。」。「繰り返します。枝豆、大根サラダ、鳥のから揚げ、水餃子、ししゃも、冷やしトマトそれぞれ一つずつですね。有難うございます。」。

「それではお疲れ様。乾杯。宜しくお願い致します。」。「北原、お前が酔うと何を言い出すか分からないから、ここではほどほどにしとけよな。沖縄の話でもしよう。」。「オリオンビールと言う地ビールがあって、安くて美味しいらしいですよ。」。「北原、お前沖縄に行ったことがないのに詳しいな。」。「沖縄出身の奴がよく言ってたよ。それに泡盛も色んなアルコール度数があって、現地でしか飲めない限定酒もあると言ってたけどね。」。「津山にはたまらないね。」。「お互いにな。」。「森首相のときに沖縄サミットが開催されたけど、そのときに随分インフラ整備が行われたから、観光面でもかなり集客ポテンシャルは上がったんじゃないかな。」。「それに最近では、エネルギー自給の実証テストも行われているようで、環境対策とも絡めて色々金が入って来ているようだね。」。「おつ、社会派フリーライターの耳がピクリと動いたね。」。

「知らない間に北原、焼酎に変えてるじゃないか。」。「いやー、今日は何だかすっきりした気分でお酒が美味しいよ。」。

暫し談笑。サラリーマン客も増えてきた。

「後から頼んだこの漬物を平らげたら出ますか。」。「いやー、今後の進展に期待して、今日はどうも有難うございました。」。

 

第3話「沖縄散歩」

 「とうとう付いて来ちゃったな。」。「しかし5月下旬だと言うのにやけに暑いな。北へ1時間半飛んで雪のちらつくオホーツク、南へ2時間飛んでで亜熱帯と、狭い日本は本当に緯度的な細長さを実感するよ。」。「レンタカー貸し出しの店舗まで、空港からマイクロバスで15分掛かるらしいから、手続きを終えて本格ドライブは午後からだな。」。「マイクロバスの迎えが来た。」

 レンタカー借受の手続きを終えて、

「さて昼飯食って、今日の行き先を考えるとするか。遺跡見学は明日だから、今日は首里城にでも行ってみる?」。「津山に任せるよ。」。「OK。このファミレスで資料でも拡げるとするか。」。

「いらっしゃいませ。おタバコは吸われますか?」。「いや、窓際の禁煙席でお願いします。」。「かしこまりました。こちらが本日のランチメニューとなっております。お決まりになられましたら、このボタンでお呼び下さい。」。「有難う。」。「運転手には悪いけどビール飲んでいい?」。「ああ、どうぞ。駄目と言ったって、どうせお前は飲むんだろう?」。「許可を得るだけ野暮か。」。「ファミレスだから沖縄料理なんてないんだね。摘みの枝豆と生姜焼き定食で我慢しよう。」。「俺はカツドンにしよう。」。

 食事しながら、

「先ず首里城を見学してからホテルのチェックイン。少し休んで夕方早めに国際通りに出掛けてみよう。」。「了解。津山の行きたい所に行って下さい。元々何処に行っていいのか分からんもん。」。

腹も一杯になったところで、ナビを設定して首里城に向け出発。

「それにしても、走ってる車は小型車や軽自動車が大半で、大型車はほとんど見ないね。」。「それに外車は皆無に近いよ。と言うよりまだ見てないね。」。「平日にも拘らず観光バスも結構駐車してると言うことは、団体さんが多いと言うことか。」。

「中学校の生徒のようだな。」。「さて我々も入城するか。」。「色と言い建築様式と言い、日本に居る感じがしないね。」。「庭の置石も何と珊瑚礁の塊だよ。」。「琉球王朝の栄華が偲ばれるね。」。「島津藩がここを利用して、中国大陸と貿易していたのは頷けるね。」。「今はこの遺産で観光収入を上げてるって訳だ。」。「説明員も当時の官吏の服装で写真撮影に応じたりと、沖縄経済活性化に涙ぐましい努力だね。」。「基地収入と観光以外に大きな産業がないからなー。」。

一旦ホテルに戻ってチェックイン後、着替えをしてからタクシーで国際通りへ。

「想像していたより静かな通りだね。横文字の看板が林立していて、もっと雑然とした通りかと思ってたよ。」。「平日のまだ早い時間帯だから米兵もいないけど、夜遅くなると変貌するんじゃないの。」。「通りに高いビルがないことも、普段東京の雑居ビル群を見慣れている目には異質に感じられるのかもしれないね。」。「結構土産屋が多いな。」。「泡盛限定品の立て看板を出している店が結構あるね。」。「確かにアルコール度数の違う種類が並んでいるけど、ラベルを見るとどの店の商品も製造元は皆同じだよ。」。「ビールはないね。居酒屋で飲めと言うことなのかな。」。「脇道に入ってゆっくり、沖縄料理とオリオンビールを楽しみますか。」。「脇道の雑然とした店の並びの方が、一通りも多くて活気があるねー。すきっ腹に応えるいい匂いもしてくるし。」。「済みませーん。この近くで、沖縄食材を取り入れた居酒屋はありませんか?」。「この脇道のもう2本左の通りに数軒並んでいるけど。大きな看板が出ているから直ぐ分かるよ。」。「有難う。」。

「ここらしいな。隣はオリオンビール飲み放題だよ。」。「ビールで腹を膨らませても仕方ないだろう。泡盛も試したいし、色々沖縄家庭料理も食べてみたいし。斉木は夜になると元気になるねェ。」。「分かった。最後までお前に従おう。」。

郷土料理を摘みにオリオンビールと泡盛を口にしながら、

「明日は午前中早めに万座ビーチに行き、そこからまた元来た道を戻って琉球大学に立ち寄る。」。「何だって! 琉球大学に立ち寄るだって!」。「そう、北原さんの件を知り合いの法学部の先生に相談してみようと思ってね。」。「えっ、何も聞いていなかったけど、こっそりそんなアレンジしてたのか? 流石津山。フリーライターのフットワークの良さには感心するよ。」。「折角沖縄に来たんだから、ガンガラーの谷だけじゃミッション不足でもったいないからね。」。「そんなに気軽に会ってくれる先生なの?」。「基地問題を色々手掛けている先生で、これまで結構教えてもらっている仲なんでね。」。「社会派教授と言うわけか。」。「ま、そんなところかな。」。「俺も同行するんだね?」。「勿論。」。

「この豚足はうまいな。コラーゲンたっぷりで口の中でとろけるね。もう一皿追加を頼もう。」。「おい、話の腰を折るなよ。お前の友達の北原さんの件なんだぞ。」。「悪い、悪い。そうだったな。」。「何か対応のサジェスチョンでももらおうと言う訳か。」。「見解を聞ければいいかなと思ってるんだ。」。「成程。」。「結構食ったし、飲んだし。満足したかな?」。「堪能したよ。」。「じゃあ、そろそろホテルに戻るとするか。」。

翌日、万座ビーチを一回りした後、琉球大学法学部の阿久津先生の研究室に。

「先生お久しぶりです。」。「相変わらずアクティブに動いてますね。斉木さんですね。彼からお聞きしてます。」。「恐れ入ります。」。「万座ビーチはまだシーズンではないから、静かで良かったでしょう。」。「そうですね。中学生を乗せた観光バスが一台だけでしたよ。それからビーチの端の方に、大きな発電用の風車が一台廻ってましたよ。ちょっと異様な光景でしたね。」。「エネルギー自給システムの実験の一環ですよ。」。「あんな場所に建設すると景観を損ねるんですけどね。ところでそちらのお時間も限られているようなので、早速お話しを聞きましょう。」。「そうですね。こちらの都合に合わせて戴いて恐縮です。斉木、先生には北原さんに関する概略の経緯はお伝えしてあるんだが、正確にお伝えするために君の方から説明申し上げるか?」。「そうですね。ではかいつまんでお話しさせて戴きます。」。「都内某私立大学法科系学部の知り合いの教授に呼ばれて、3年前から非常勤講師をやっていた北原と言う私と同期の男が、この4月の授業開始日に事務局に立ち寄ったら、別の先生に替えられていたと言うことなんです。本人はビックリして学長宛に、何の説明もなく首の挿げ替えをするとは一体どう言うことかと、真相解明を求めたんですが、未だに何の応答もないと言うことのようです。こう言った事態は大学では当たり前のことなんでしょうか?」。「うちの大学ではありませんが、矢張り或る私大で、一人のワンマン教授が気に入らない准教授に卒論の学生を与えなかったとか、別の部門に追い出したなんてケースはありますが、学内の先生だけについては日常茶飯事かもしれませんね。ただ非常勤となるとわざわざ招聘した学外の方ですから、大学内で納まらない諸々の問題が出て来ますね。大学は会社のような組織体ではないので、個人の問題と言うことになります。尤も公に謝罪したりする場合は、学長なり学部長の責任は問われます。もし意図的に学内の或る先生が、北原さんに事前に報せることなく勝手に辞めさせたとしたら、首謀者たるその先生を問責することは可能です。不当労働行為そのものです。背景に何か妬みや恨みつらみがあるのかもしれません。外部の非常勤の先生がそのようなことに巻き込まれたのでは、溜まったものではありませんよね。かなり失礼な、非常識な大学ですね。」。「成程。そうすると首謀者と、北原を非常勤に呼んでくれた先生との関係、更に北原との関係等を調べる必要があると言うことですね?」。「そうですね。」。「北原に声を掛けて呼んでくれた先生が、退職された後に起こったと言うことなので、阿久津先生の言われる事情が根底にあるのかもしれませんね。」。「北原さんに非がないとすれば、裁判でも十分勝てますよ。」。「国公立大学も含めて、大なり小なり大学の癌と言われる先生はいますよ。本来はそう言った癌の方を辞めさせなければいけないんですけどね。」。「色々参考になりました。有難うございます。」。

「ところでガンガラーの谷に行く前に食事は取るんでしょうから、一緒に食べましょう。学食ですけどね。珍しい沖縄蕎麦でも如何ですか?」。「そうしましょう。」。

昼食を終えて、大学を後にガンガラーの谷に向かう。

「随分気さくな先生だね。」。「そうだね。あの先生も東京から追い出されて沖縄に来られたみたいだから、達観されて人間ができているんだよ。何となく俺と馬が合うんだよ。」。「分かるような気がするね。」。「しかし大学の世界は、我々の知り得ないどろどろした異様な社会なんだなー。」。「大学人にとっては、それが極めて常識的な感覚なんだろうね。」。「正に大学の常識、世間の非常識ってことか。」。

「さっ、ここがガンガラーの谷の入口だ。」。「ただ汚ならしい掘っ立て小屋があるだけの場所じゃないか。」。「ここは単なる駐車場所さ。その先の小道を下りて行くと洞窟の入口がある筈だ。」。「50万年前の鍾乳洞跡と、古代人の居住跡と言う振れ込みにしては目立たないね。」。「まだ発掘調査が継続しているから、観光地化させないように或る程度配慮してるのかもしれないね。」。「外は暑いけど、樹木の間を下の方に向かって行くと結構涼しくなるね。」。

「いらっしゃいませ。こちらで受け付けます。2時から約1時間半のご案内になります。皆さん集まるまで、もう少しお待ち下さい。」。「ここも鍾乳洞窟だね。上から冷たい雫が落ちて来るよ。」。

「時間になりましたので、それでは皆さんこちらに集まって下さい。本日の見学者は16名です。先ずこの遺跡のご説明をしてから出発します。ヘッドランプ付きのヘルメットと、水筒に入れたお茶をお配りしますので身につけて下さい。」。

見学の際の注意と学術的説明の後、説明員から逸れないように1時間半の見学コースを堪能。

「鍾乳洞窟の一部が崩れて風通しもよく、適度な採光もある洞窟なら確かに住居としては最適な場所だね。」。「土器や煮炊きした跡が見つかっても不思議はないね。沖縄は初めてだったけど、歴史を振り返るいい勉強になったよ。それに幹線道路整備の素晴らしさと、米軍基地の規模にはビックリしたね。」。「午前中、阿久津先生は一切基地の話題を出されなかったけど、先を見据えた現実派でもあり、筋を通すところはかなり強硬派でもあるんだよ。」。「穏健な理論派のように見えるけどね。」。

「レンタカーを返して、時間まで空港で喉でも潤すか。」。「了解。」。

 

第4話「目から鱗」

 再び対応のための鼎談。

「その後、何か進展ありましたか?」。「全く無しの礫ですね。」。「そうですか。北原さんの方で何か動かれたことはありますか?」。「ええ、私を呼んでくれた枡田先生と先日お会いして、今回の出来事をお話ししました。ビックリされてましたよ。」。「そりゃ−そうでしょう。」。「色々お話ししているうちに、先生の口から一人の首謀者の名前が出ました。奇人変人で万年講師の異名を取る、甲騰と言う名前の先生であることが分りました。かつて不祥事を起した甲藤氏を庇って大学に残したものの、20年間昇進しなかったのは枡田先生のせいだと勝手に思い込み、勘違いして逆恨みしていた状況がここ数年続いていたので、枡田先生が退職された機会を捉えて、恨みを晴らすために私の首を切ったのでしょうと言うのです。しかもその後色々聞くうちに、現在私が間借りさせて戴いている研究室の先生と、甲藤氏とはまともな議論にならないくらいの水と油だと言うんです。間借りしている岸田先生は人格者で大学内でも人望の厚い方なので、それも気に食わなかったのかもしれませんが。」。「成程。でも一講師の彼が、どうやってあなたの首のすげ替えができたのか、不思議ですね。」。「どうもこう言うことらしいんです。学部長とかは、国公立大学を定年退官して招聘されているケースが多く、お偉いこ長老教授連は大学の内情等に疎いわけです。何十年もいる古参の人間の方が内情に通じていて、諸々の仕組みも良く知っている。更に彼は口だけで学部内を巧みに泳いで来た万年講師のようで、非常勤の組み換えと称して、学部内会議等でも旨く案件を通したんでしょうね。お偉方を含めて他の先生方は事情も知らず、そうなっているのかと非常勤交代について、何の疑問も持たなかったと言うことなんでしょう。」。「事務方はこの辺りの事情は知ってたんでしょうか?」。「さあ、それは良く分かりませんが、例え知っていたとしても、法政学部からこれこれ決まったのでルーチン的に処理しただけと言うでしょう。事実そう言ってますから。」。「ルーチン的処理とはどんな事務手続きですか?」。「私の場合は本務の文理学部が管轄しているとのことなので、文理学部の授業担当科目に付随して、法政学部の授業担当科目も記載されることになっているらしいんです。後期文理学部の下記授業担当をお願いしますと言った書類は来ました。法政学部から書類が来ないので、事務局が異なるので別々に来るんだろうなと思いながら、忙しさにかまけてそのまま忘れていて、当日に至ったと言うのが正直なところなんです。」。「首を挿げ替えられたことが分かった後で事務方に問い正したら、12月初旬に文理学部の授業担当依頼しか出していないことや、法政学部の授業担当は別の非常勤に替わったこと、理由他一切通知はしていないとのことだったので、またまたビックリしたわけですよ。担当を依頼するときは色々書類提出させておいて、首を切るときは本人に何の説明もなく、当日授業開始日に行って知るんですから異常な大学ですよ。」。「組織としては正に不当労働行為そのものですね。ただ大学は組織体ではないと逃げるでしょうから、その場合は甲藤氏個人を名誉毀損等で訴えることになるかもしれませんね。」。「陰湿な世界だね。」。「まあ、お前が勤めていたような民間企業とは違うよ。別に大学自体が潰れるわけでもないしね。企業だと不祥事が、売り上げや利益に直結する場合が多いからね。」。「ところで、他の学部の先生方は今回の件をどのように見てるんでしょうかね?」。「文理学部の先生方は一様に、失礼千万なとんでもない行為で、大学の恥だとお荷物の甲藤氏に呆れていますがね。学長や副学長、学生教育部長の先生方は、甲藤氏がとんでもないことをやらかしてくれたものだと、謝罪と私への別のメニューを考えてくれているようですがね。大学と言うところ、一旦住み着いてしまうと、こう言った厄介者でさえ辞めさせられないんですから、非常識な世界ですよ。」。「学長と言えども真相解明させる権限はないと言うわけですか。」。「学長も選挙で選ばれた一教授ですからね。任期が終了すれば、また元の研究室で学生指導をする立場に戻るんですから。」。「成程。かなり事情が把握できました。」。「これまでの状況を再度整理して、時系列的に詳細記述したものがこれです。ほとんどお話しした内容と変わっていませんが、その後の謝罪対応を追加しています。参考にして下さい。」。「謝罪したんですか?」。「学長と学生教育部長の先生、文理学部の先生方の常識行動的支援で実現したようなものですけどね。首を切った理由も何の説明もない極めて形式的な、法政学部長他のがん首揃えての頭を下げる儀礼ですよ。」。

 「実は知り合いの或る週刊誌の編集長を呼んでいるんですけど、ちょっとまだ早いかなー。18時以降にならないと身体が空かないとは言ってたんですけど、携帯に掛けてみましょう。新宿で打ち合わせだと言ってましたから、近くにいる筈なんですよ。ちょっと失礼。」。

「斉木の人脈も幅が広いね。」。「中学時代の気の合った旧友は、それなりに長く続いているね。大学時代の仲間は皆同じような専門分野で領域も限られているけど、小学校や中学、高校時代の仲間は、それこそ多方面に渡っているから付き合っていて、お互い啓発もされるし面白いよ。北原だってアカデミックな人脈の世界を持っているじゃないか。引き出しや中身は人それぞれだよ。」。

 「打ち合わせが早めに終わったとのことで、タイミング良く携帯で誘導してお連れしました。」「失礼します。高谷です。」。

 一応全員、儀礼的な挨拶をして本論に入る。

 「前回戴いた北原さんの資料を高谷さんにお渡ししてあるので、状況はかなり把握されています。高谷さんから北原さんに、更にお聞きすると言う形でどうですか?」。「了解。ところで北原さんはこの件を最終的にどうされたいのかお聞きしておきたいんですが。」。「色々聞いてみてもこのような不当労働行為的首切りはないらしく、私だけのようなんです。そう言った意味からも是非全容を知りたいのと、首謀者にそれなりの社会的制裁を負わせたいと言うのが正直なところです。ただ内容のない形式的な謝罪対応と、これだけ時間も経過してくると、この大学特有の恨みつらみの内紛に巻き込まれた犠牲者だったのかと、些か諦めの気持ちもあって、自分でも良く分からなくなっているんですよ。一人の古参の講師が横暴な行為を通せる、こんな非常識な世界を今まで知りませんでしたからね。」。「成程。時間が経つと心境も変化しますからね。分かりました。実は参考になるかどうか分かりませんが、過去に似たような話しがあるんですよ。結局新聞が取り上げたんですけどね。」。「それは聞きたいですね。」。

 「北海道の或る大学で起こった、女子学生に対する教授のパワーハラスメントなんです。研究室でやっていた卒業論文の指導を、休みの日にその女子学生を自宅に呼んで教えることにしたんです。家族はその日外出していて、指導教授と彼女だけです。色々指導した後、一休みしようとビールを無理やり薦めて喉を潤したのですが、その時に先生がその学生にキスをしたり、身体に触ったりしたわけです。彼女はビックリして拒んだものの、卒論が通らないと卒業も就職もパーになってしまうぞと脅されて、一瞬怯んでしまったようなんです。その後もしつこく自宅に来るように言われるので、悩んだ挙句友達に打ち明けたところ、何とその友達も教授室で身体を触れられたことがあると言う。遂に2人は学生課にその話しをして、大学上層部の知るところとなった。ここからの大学対応がまずい。始めのうちは何とか内々に収めようと考えていたんだが、彼女達以外にも知られるところとなって、実は以前からその教授はそう言った性癖があるとの噂が広まった。それを地元の新聞やメディアが知って、その教授に接触するようになった。教授は合意の上での出来事を主張し、遂に弁護士まで立てて、女子学生が数ヶ月も経ってからこのようなことを言い出したのは不可解であり、名誉毀損と逆襲する始末。慌てた大学側は、糾明する委員会なるものを作ってその教授の処分を決めたんですが、自宅謹慎3ヶ月と言うだけで、彼女達へのケアや保障はなかったようです。彼女達も諸々先々を勘案して、結局法定闘争にはしなかったと言うことのようです。でもメディアが大々的に取り上げたので、大学側の結論出しも早かったのでしょう。でもこのような不祥事は、氷山の一角に過ぎない事例のようですよ。形は違いますが、北原さんの場合も、永年の妬みや恨みつらみの首切りとは言え結果的には、常勤教員と非常勤教員の身分の関係を利用したパワーハラスメントですよ。」。「成程。」。「でも流石現代っ子ですよ。その後彼女達はブログを立ち上げて、この事実を赤裸々に小説風に仕立てて、登場人物も大学名も仮名で発信したんです。」。「ほう、凄いことをしますねェ。」。「一般の女子学生だけでなく、大学関係者もかなりアクセスしたようですけどね。実はこれに目をつけた更に上手がいて、これをもうちょっと違ったシテュエイションのフィクションに仕立てて、本格的な小説にしようと言う動きもあるんですよ。」。「世の中凄いことを考える人がいるもんですねー。」。「わざわざ冊子による活字形式でなくて、携帯端末で読める小説だってあるくらいのご時勢ですから、別に驚くことではないんですよ。」。「成程。益々凄い世界ですね。確かにインターネット社会では一人のクレーマーが、大企業にイチャモン付けて大損害を与えることさえあるんですからね。ただ今回の一件に関しては、法政学部を含む甲藤氏以外の先生方については、私の支援者で心配してくれていることを勘案すると、大学そのものを痛みつけるわけにもいかないんですよ。心情的には卑劣な首謀者だけを炙り出して世間の批判を受けさせたいんですよ。」。「なかなか難しいご要求ですね。」。「済みません。心情的にはそう言ったことなんですが、迷惑を掛けたくない人を避けると言っても、一旦メディアに出てしまうと十把一絡げにされて、こんな配慮は関係なくなっちゃいますかね。」。「それはひとえにメディアの質に依るでしょうね。一般論ですが、新聞と大衆週刊誌とでは取り上げ方が違ってきます。本来、新聞はあくまで客観的事実の報道をモットーとしているし、一般の大衆週刊誌は一般受けするために、興味本位のスクープとして料理することもあるでしょう。あくまで建前上の両者の対応スタンスですから、その時代の外部環境や記者の価値観、信条等で違ってくるので、本当のところはグレーなんですよ。」。「興味深いスクープは売り上げアップに貢献するんでしょうね。」。「津山君はそれをフリーの立場で、会社のスタンスに縛られずにやっていると言うわけですよ。」。「自分の軸が振れるときもありますけどね。」。

「ところで北原さん、小説を書く気はありませんか?」。「えっ、今回の件をですか? いやー、専門技術のことを書くならたやすいことですけど、小説となると・・・・。」。「無理ですか?」。「いきなり小説と言われてもずぶの素人ですからねー。」。「そうでしょうね。多分面食らっておられるでしょう。戸惑われるのは当然です。実は裏の世界で面白いシステムがあるんですよ。」。「裏の世界のシステムですって?」。「そうです。津山君は知ってるだろう? 一種の小説作成請負仕事のようなもんですよ。」。「へー、そんな裏方の世界があるんですか。津山は知ってたの?」。「まあね。この世界の隅角に生きてるようなもんだからな。」。「経緯と自分の気持ちを時系列的に詳細に記述するだけでいいなら、これまでの記録もあるし別に大変なことではなさそうですね。分かりました。ご迷惑お掛けすることになるかもしれませんが、やってみましょう。宜しくお願い致します。」。「了解しました。記憶が薄れないうちに早い方がいいでしょう。来週か再来週当たりでご都合の良い日の夕方5時頃に、私のいる事務所においで戴けませんか。」。「それでは来週の金曜日に伺わせて戴きます。」。「了解です。諸々準備してお待ちしています。」。「それじゃー、構想が纏まったところで、ちょっとアルコール消毒でもして解散としますか。」。

 

第5話「段取り」

 「どうも。先日は色々有難うございました。」。「いや、どうも。こちらこそ勝手なことを言いまして失礼しました。どうぞこちらへ。」。「失礼します。」。「紹介しましょう。北原さん。こちらはスタッフの野添です。」。「お世話になります。」。「どうぞ気を楽にして下さい。」。

「さて、早速本題に入りましょう。」。「野添さん例の本出して。」。「これですね。」。「実はこの本は出版直前になって依頼主から出すのを止めたいと言われて、お蔵入りになった代物なんです。余りにも生々しくて、関係者が読んだときに何か一悶着起きそうなので、止めにしたいと多額の解約金まで支払われて出版を断念したものなんです。差し上げます。勿論印刷までには何度も北原さんに推敲、再確認をして戴きますので、細かなところまで満足するまで何度も読み直し、追加、修正を徹底的にお願いしたいんです。今回の件は津山君の強い意向もあるので、私もこれに傾注して取り組ませてもらいます。こう言う仕事ですから当然なんですが、彼女は口も堅く、頭の回転も早い極めて優秀なスタッフですから、気兼ねなく何でもおっしゃって下さい。」。「お支払いする金額はどの程度を考えておけば宜しいですか?」。「御代は戴きません。津山君の意向以上に、この種の話しは興味がありますし、私としても出版してみたいジャンル、テーマなもんですから。資金面は心配しないで下さい。」。「そうですか。何から何までお世話になります。」。「ではこれからやることを相談しましょう。あれから何か追加や修正等はありますか? もしあればどんな細かいことでも結構ですから、教えて下さい。それから北原さんの外見上に限った身体検査結果、体重や身長と言ったことも教えて下さい。性格、信条、経歴、職歴、人脈、不祥事を起した大学の内部事情、これは噂や個人的に感じておられる範囲で結構ですけど、この辺りをご提供願いたいんですけど。個人情報はそのまま使うことはありませんので、私を信用して下さい。これはメールでも結構です。これら戴いた情報から、北原さんとは似ても似付かぬ全く別の架空の人物像を作り上げます。これを主人公にして、ここから物語を開始します。この人物の性格や信条も北原さんとは違います。我々ゴーストライターは、この人物に成り切って架空の大学、架空の大学教員、架空の不祥事、ただこの不祥事の本質だけは場面設定を変えますが、事実に基づいた形で展開します。」。「成程。タイトルや作者の名前はどうするんですか?」。「タイトルは北原さんと相談して決めます。これは大事ですから結構時間を掛けます。作者は仮名です。」。「これを野添さんがなさるんですか?」。「そうです。実はパソコンに諸々データを入れて行くと、取り敢えず時系列の無味乾燥の文章ができるソフトがあるんです。次に感情移入を行うんですが、喜びや、笑い、悲しみ、怒り、共感と言った大まかな分類で、随所にその表現を挿入していきます。これもソフトが判断してやってくれます。言わば学習機能でかなり洗練された、高度なエキスパートシステムのようなものですね。次にそれを文法的、内容に矛盾がないか等をチェックします。最後に文章としての起承転結が、或るルールに則って形成されているかを確認します。ここまでが一次段階です。これ以降は、彼女が改めて文章を本来の小説として構築し直します。この作業が第2段階です。これを北原さんにお渡しします。予備推敲です。それを元に、私を交えて3人で本推敲に入ります。この段階が大事なんです。時間も掛けます。そして最後に、いよいよタイトルと作家名です。」。「どのくらい時間が掛かるものなんですか?」。「データさえ揃っていれば、パソコンに頼る段階まではそんなに時間は掛かりません。矢張り人の手による推敲が一番時間が掛かります。この種の題材は大体、四百字詰め原稿用紙50枚相当程度に2、3ヶ月。長いものでも半年は掛かりません。尤も依頼主とのやり取りが途中で途絶えたり、何かあったりした場合は別ですよ。」。

 

第6話「タイトルと作家名」

 「今回は特別イレギュラーな手順ですが、タイトルと作家名はこうしましょう。タイトルは“アカデミック・クーデター”、作家名は“鳥羽 千璃香”。とばっちりかと言う北原さんの気持ちを汲んだ名前です。ちょっと不謹慎なスタンスかもしれませんが、押し殺した憤慨の意味を込めてどうでしょう。」。

 「或る雑誌社が、分野を問わない小説の懸賞付き募集をやっていますから、それにでも応募してみますか。勿論この応募とは別に、或るタイミングを見て出版計画は進めますけどね。当然タイトルも筋書きも中身も変えなければなりませんけどね。」。

 北原はリアルの世界と、バーチャルとも言えそうな世界に足を踏み込んだ不思議な感覚に襲われながら、一種のアカデミック・バイオレンスの見えざる力と戦っている自分を静かに見つめていた。このような種々の見えざる権力とか、圧力と言った力が交錯する世界で、どろどろしたさまざまな葛藤を通じて、社会がうごめいていることを改めて認識させられた事件であった。

 

             ― 完 ―