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迷走

藤直 暁恒

第1話 「混沌」

 何故いきなり離婚してくれなんて言うの? 分からない。身勝手よ。何故なの? 枕が涙で濡れる。夜中にけたたましく電話が鳴る。「離婚届送ったから印鑑押して返送して欲しい。」。「・・・・・。」。「もしもし、聞いているのか?」。「たった3日の短い命だった麻衣子が亡くなって、まだ一周忌も経っていないのよ。麻衣子が可哀想だとは思わないの?」。」。「・・・・・・・。」。「・・・。」。「ツー・ツー・ツー」。

電話器の横に立掛けてある、生まれて直ぐ抱いて撮った麻衣子の写真を思わず抱き締める。

翌日の午前中、醇子は夫に電話を入れる。「工藤の家内ですが、主人の政弘を呼んで戴けないでしょうか?」。「申し訳ありません。ただ今先生は診察中です。奥様から電話のあったことをお伝えしておきます。」。「そうですか、宜しくお願い致します。」。

自分も高齢出産だったが、主人は私以上に高齢出産の悲劇を目の当たりにしてきているのだろう。何時までも悲しみを拭い去れない私に、距離を感じ始めているのかもしれない。でも自分のお腹の中で動き、会話をしながら育んできた小さな命が、この世に出てきて母親と対面した喜びを直ぐに奪い取られた悲しみみは、そう簡単には断ち切れるものではない。実家に戻っている今の醇子の純粋な感情である。

しかし夜になっても政弘からの連絡はない。アパートに電話をしてもいない。夜勤が続いているのかもしれない。台所の蛇口から勢いよく流れ出る水を、両手で受けてそのまま睡眠薬を飲む。母親は奥の畳の部屋の自室で寝入っているようだ。醇子は大きく溜息をついて2階のベッドに戻った。

翌日の午前中、母親がデパートに出掛けた後、新聞に目を通していたときに突然電話が鳴った。

「私だ。離婚届に押印はしたのか?」。少々気が立っているような、荒々しい口調で言葉が浴びせられる。「早くこの悲しみ、陰鬱な事態を断ち切って、新たな出発点にしたいだけだ。」。「随分身勝手ね。」。「今の状態の生活をこのまま続けることは、お互い精神的にも肉来的にも苦痛だ。少なくとも、毎日新しい命の生死と向き合っている私には、自分の家庭、実生活までこんな状態では耐えられない。しかも君はあれ以来ずっと実家に戻りっきりだ。」。「私にはよく分からないわ。」。「兎に角、現状の重苦しさから開放されたいんだ。早く押印して返却しろ。」。「ツー、ツー、ツー、ツー,ツー、ツー。」。

醇子は暫く受話器を耳に当てたままその場から離れない。分からない。夫は錯乱状態に陥っている。暫くほうっておこう。その内、業を煮やしてここに来るかもしれない。そのときにゆっくり話せる。

再び新聞を手に取って社会面に目をやる。産婦人科医の訴追記事が大きく報じられている。一方で幼児虐待による母親逮捕の記事が小さく載っている。産婦人科医はあらゆる努力を払って、新生児を助けることに命を賭けているにも関わらず、また無事に生まれてきて母親の愛情に包まれ、育てられているにも関わらず、事態は逆の方向に進む。何と非常なことか。人はそれぞれ価値観の異なる無念さを背負っている。醇子は改めて麻衣子の冥福を祈ると共に、感謝の気持ちが込み上げてくるのを抑えきれない状況に襲われた。生まれてきて有難う。私の腕の中で元気に泣いてくれて有難う。小さな幸せを運んできてくれて有難う。紙面の一部が涙で濡れた。

気を取り直して、新聞に挟み込んであった広告の束をテーブルで一枚づつ眺めていると、外国語会話教室の新規入学案内が目に留まった。英会話ではありふれていて面白くない。気晴らしに最近フランス式の生け花教室にも通い始めたし、丁度いい。そうだ、日常のごたごたから離れて集中できそうだ。フランス語会話をやってみよう。大学時代の第2外国語で少し齧っただけで、ほとんど忘れているが何とかなるだろう。

場所は飯田橋。初級クラスにも色々レベルがあるが、先ずは初心者クラスから始める。

2回の授業で宿題はないが、予習・復習は欠かせない。ネイティブ先生の鼻に抜ける綺麗な発音に魅せられる。別に確固たる目標があるわけではないが、何かに没頭できる対象があることによって、かなり気分は楽になる。

数日後に全ての手続きを終えて、分からないなりにも教材に目を通してから就寝するのが日課となった。

数週間ほど経った早朝に、政弘から電話が掛かってきた。今夜非番になるので新宿で会って話をしたいと言う。かなり落ち着いた穏やかな口調だ。夫から冷静に会おうと言ってきているのだから、精神的にもかなり落ち着いたのかもしれない。会ってじっくり話を聞いてみよう。

醇子は政弘の指示した場所をメモして、新聞記事の続きに目をやる。連日企業の損益大幅下方修正や、非正規社員の派遣切りのニュースで持ちきりであり、明かるい話題に乏しい。夫の今の仕送りと父親の残した株式での遺産だけでは、このご時勢先々苦しい。いずれは母親の介護も必要になってくるだろう。先々の厳しさを案じないわけにはいかない。

程なくして母親が奥の部屋から出て来る。「お早う。電話が鳴っていたようだったけど政弘さんから?」。醇子は黙って頷いただけで、相変わらず新聞に目を通している。母親はそれ以上何も言わず台所に向かう。

トーストとコーヒーを用意して、居間のテーブルでテレビを見ながら朝食を取るのが母娘の日課だ。醇子も時折テレビ゙に目をやりながら、入れたてのコーヒーを啜る。母親の無言の雰囲気が全てを見透かし、理解している感じで、醇子にとっては逆に気が楽である。

「今日はフランス語会話の授業に行って、夜は政弘さんと話をしてくるから、ちょっと遅くなるかもしれない。食事はいらないわ。」。「そう、政弘さんもあなたと話ができる精神的な余裕が出てきたてよかったわね。」。それ以上は母親も続けることはしなかった。

醇子は当日の昼前に家を出て、フランス語会話受講の予習をするために喫茶店に立ち寄った。自宅と駅のほぼ中間に位置する、静かな落ち着いた雰囲気の喫茶店で、帰りによくここの手作りケーキを買って帰る。クラシック音楽とコーヒーの香り漂う片隅で、小さな声を出して発音する。

フランス式生け花教室での、片言の雰囲気を味わう範囲を超えるのだと思うと、ちょっとわくわくしてくる。運ばれてきたケーキを口にしながら、何やら呟く様は滑稽にさえ映る。教材を伏せてはコーヒーを啜り、天井を仰ぐ。暫く目を閉じて暗記した会話を確認し、教材を手提げバッグにしまい込む。コーヒーを口にしながら暫し瞑想に耽る。

夫に会ったらどのような態度で接すればよいのだろうか。また突然ヒステリーを起して話が先に進まない状況になっては会う意味がない。腕時計を見るや、慌てて醇子は席を立って店を出た。

 

第2話「葛藤」

 フランス語会話の授業を終えて、時間潰しにデパートを歩いてみる。豪華な洋菓子や輸入食材の並ぶ、洒落たデパ地下に変貌している光景に購買意欲を煽られる。フランス人パテシエの作るチョコレートを夫にプレゼントしよう。彼の気持ちが落ち着くかもしれない。綺麗な包装にリボンまでつけてもらって2セット購入する。勿論もう一つは母親への土産だ。

小さな紙袋を目立たないようにして、指示されたデデパート階上の店に向かう。名前を告げると個室に通されて、お連れ様は多少遅れますとの伝言。醇子はいつものことと割り切っている。また急患が入ったのであろう。運ばれてきたお茶を口にしながら、色々考えを巡らせる。

程なく政弘が現れた。「待たして御免。今日ははっきりさせたいので時間を取った。僕の考えは変わらない。分かって欲しい。」。

いきなりの頭ごなしに、またかと醇子は黙って政弘を見つめる。

「ご注文は何になさいますか?」。店員がおしりと水を持って聞きに来る。政弘は手馴れた対応で幾つかメニューの品を注文して、再び口を切った。「離婚届に判を押せない理由を聞かせて欲しい。これまで言っているように、金銭的保障は君の要求通りする積もりだ。これまでのわだかまりを絶つことには、君も同意しているじゃないか。」。

醇子が静かに口を開く。「お互い精神的に不安定になっていたのは認めるわ。でも麻衣子が亡くなったのはあなたのせいでも私のせいでもないわ。神様が私達に慈悲の授けをされなかったことに苛立っているだけだわ。」。「だから君は一体どうしたいというんだ。」。「・・・・・・。」。また冷静に話ができなくなってきている。ヒステリーが起きなければよいが。

注文した料理が運ばれてきた。ほっとして料理に箸をつける。「ねえ、あなた一人になれればこの苦悩から開放されるの?」。醇子は箸を休めて政弘を直視する。「・・・・・・。」。

政弘は無言でビールを飲み干した。「自分でも分からん。忘れることが次への新しい命の誕生に立ち向かえるような気がしている。赤ちゃんを取り上げた瞬間に元気な泣き声が響くと、思わず投げ捨てたい衝動に駆り立てられるときがある。ハッとする。何故だか分からない。一瞬麻衣子の幻影がよぎって頭の中が真っ白になる。」。

醇子は驚愕するが、顔に出さないようにするのに必死で、コップの水を口にする。政弘は続ける。「何人も取り上げて疲労困憊して眠りに就いたときは異常な夢を見る。君が麻衣子の屍を抱いて私を追って来るんだ。精神安定剤を服用して暫くは収まったが、異常分娩に対処した後は、また似たような夢にうなされる。」。「私と麻衣子から完全に離れて、全てを忘れることがあなたの救いというわけ?」。「分からない。今はそれしかない。」。「あなたを救う意味からも、天国にいる麻衣子の冥福を祈る意味からも、別れることが最善だとは私には思えないわ。別にお互い憎しみ合っているわけではないのだから、あなたの精神カウンセリング治療の結果を気長に待っていたいわ。」。「カウンセリングを受けているときの自分は、自分でないような感じがしている。・・・・・・。これほど苦しんでいる俺の気持ちが汲み取れないのか。早く離婚届に判を押して送り返せ!」。

突然政弘は切れて席を立って出て行った。程なくして戻ってきて支払いを済ませたことを告げると、そのまま立ち去った。

醇子は残ったコップの水を飲み干すと、暫く放心状態で椅子に深く腰を下ろしたままでいたが、やがて静かにその店を出た。

 

3話「気晴らしの決意」

 いつものように、ほぼ決まった時間に起きて、居間で朝刊を広げていると、母親が奥の和室から出て来る。母親は敢えて醇子に昨日の結果を聞くことはしない。また例によって並行線を辿ったのだろう。母親は無言でいつものようにコーヒーを入れて醇子の前のテーブルに静かに置く。

 突然醇子が口を開く。「少し暖かくなったらスイスにでも行ってみない? 新聞の広告に随分安く出ているわ。」。「何時頃行くの?」。醇子の唐突な提案に驚いた様子も見せず、母親は淡々と返す。「初夏の頃か夏の終わり頃どうかしら。」。「そうねー。スイスは夏の方が寒くなくていいんじゃないの? その頃までには足の痛みも取れているかもしれないわね。」。「そうね。先に楽しみが待っていると思えば、自然と身体も治癒効果が働くわよ。」。母親は冗談と受け流していたようたが、醇子はその気になっていた。

 フランス語会話教室に通い始めて数ヶ月が経った頃、同じ初級クラスの女性と帰りが一緒になった。ある商社の秘書室に勤務しているのだが、英語だけでは仕事が進まないので、夜の初級クラスに通っているのだと言う。たまたま今日は休暇が取れたので、昼間の授業にシフトしたのだと言う。目的の仕事のためにスキルアップしている勉強意欲が、強烈に醇子に伝わってくる。

恐らく自分より年下だろう。醇子は何となく焦りを感じる。今の停滞した現状を何とかしたい。でも自分一人では何ともできない。

彼女と駅で別れてから、もどかしさと焦燥感、情けなさとが一挙に込み上げた波動が醇子を襲う。このまま放っておいたらどうなるのだろうか。離婚届に判を押せば形の上では一挙に解決する。ただそれは心が許さない。醇子の苦悩は堂々巡りの果てしない葛藤である。

 数ヶ月膠着状態の中、そうこうしているうちに一方では、母親の意見に従って夏に決めた、スイス観光ツアーに参加する日が近づいてきた。出発は8月下旬。当初冗談と受け留め困惑気味だった母親も、娘との久々の旅行を楽しみにしている。

スイスにはフランス語圏もある。ひょっとしたらフランス語が聞けるかもしれない。そんな都合のよい勝手な夢を思い描きながら、キャリーバッグに荷物を詰める母娘の姿は、はたから見れば正に幸せそうなドラマの一場面である。

 寝床に就くと、政弘から電話が掛かってくるのではないかと気になる。スイスから戻って来るまでの間は、掛かってこないことを望むだけである。内心そんな都合のよいことを思いながらも、気持ちの逃避行に傾いていく。

 出発の早朝、けたたましく電話が鳴った。醇子は敢えて出ないで、玄関先で待機している予約のタクシーに母親を急かして乗せた。まだ道は混んでいないので、成田エキスプレスの乗車駅まで30分もあれば着くだろう。母娘はタクシー内で無言のまま、じっと進行方向を見つめている。携帯電話は電源を切って、あるので政弘から掛かってきても、チェックするまでは醇子にもその内容は分からない。尤も今は知りたくない。折角母親と嫌なことを忘れて、癒しを求める観光ツアーに出掛けようとしているのだから。醇子の引き締まった顔付きに、母親もそんな気持ちを推し量っている様子であった。

 程なくして渋谷に到着。醇子は二人分の荷物を詰め込んだ大きなキャリーバッグを転がしながら、母親のすっかり回復した軽快な足取りについて行く。

電車内に落ち着いてから、二人は初めてまともな会話を交わした。乗車前に購入した缶コーヒーとサンドイッチを口にしながら、暫し会話を楽しむ。醇子は母親に余計な心配をさせないように、トイレに立ったときに携帯をチェックすると、果たして政弘からの留守番メールが入っている。目を通すと醇子はその内容を消去して席に戻った。

千葉県に入って暫く経つと、都会の喧騒とは程遠い田園の様相を呈し、随分遠くにきた錯覚に捕らわれる。その先に国際空港があるのは何とも不思議な感覚である。

「さあ、終点成田よ。」。母親の方が元気がよい。醇子にはそれがたまらなく嬉しい。パンツルックの軽快な母娘親子は、同様の旅行者に混じって先へ進む。パスポート提示のゲートをくぐれば空港ターミナルだ。4階の所定のカウンター前は、既にツアー客が列を成して手続きをしている。

スイス観光ツアーのバッジと搭乗券をもらって荷物を預ければ、後は出発ロビーに指示された時間までに行けばよい。何時になく明かるく元気な母親を見て、醇子はスイス観光ツアーに誘って本当によかったと、しみじみ幸福感を噛締めるのであった。

 

4話「旅立ち」

 チューリッヒに向かうスイスエアーは快適そのものであった。周囲の席は同じツアーの乗客だが、お互い紹介もし合っていないので、どのような人が一緒なのか分からない。

醇子の隣には中年男性と、小学校の高学年生と思しき女の子が盛んに足元を気にしている。何か落としたらしい。醇子は自分の足元に何か触れるのを感じて、足でそれを手繰り寄せる。サンダルの片割れだ。女の子に「サンダルのもう一方はこちらに転がっていますよ。」。「済みません。駄目じゃないの。放り投げたりしちゃ。」。父親らしき中年男性が醇子に会釈して娘をたしなめる。

「スイス観光ツアーの方ですか?」。醇子は父親らしき男性に話し掛ける。「ええ、そうです。ご一緒ですか。宜しくお願いします。」。「こちらこそ宜しくお願いします。」。トイレによく立つからと、通路側に座っていた母親も軽く会釈を返す。年は違うが母親と娘、父親と娘、それぞれの組み合わせが同一ツアーの8日間を、それぞれの思いで楽しむのだ。

気が付くと母親は頭を醇子の方に傾けて目を閉じている。早朝からかなりの運動量だったので、流石の母も疲れたのだろう。その内、醇子も毛布を被って夢の世界に引き込まれていった。

 何やら騒がしい周囲の物音と声に目を覚ますと、チーズの香りを漂わせた夕食のワゴンが近くにいる。腰の痛みを反対によじって座り直し、背もたれを元に戻す。1時間は漠睡した感じだ。狭い空間で母親とこうして食事をしていると、幼い頃電車で駅弁を食べたときのことを思い出す。旅とはこういうものだ。

醇子の隣では、父親が女の子の機内食容器の蓋を取ってやっている。「狭い所で食事も大変ね。」。「この子を海外旅行に連れて行くのは初めてなんですよ。」。娘の機内食容器を並び替えながら父親が言葉を返す。ほほえましい光景だ。醇子は静かに母親の方に顔を向ける。「ちょっと癖があるけど、チーズはやっぱり本場だけのことはあって美味しいわね。この味好きだわ。」。

身体を動かさず時間経過だけで2回目の食事が運ばれてくると、まるでブロイラーの感じになる。それでも次の朝食時の暖かいパンは美味しく、幾つもお代わりした母娘であった。

 12時間の空の旅でチューリッヒ空港に到着。日本とは7時間の時差なので午後の3時半だ。

ホテルまで迎えのバスで約30分。ホテルのロビーにツアー参加者全員が集合して、初めてその多さと多様な構成に驚く。尤も他の人からは、醇子達もそのように見られているかもしれない。名前が呼ばれるまでロビー内の案内パンフレットや、掲げられているアルプスの写真を眺めているが落ち着かない。

程なく名前とルームナンバーが告げられて鍵を受け取り、それぞれ階上の部屋に向かう。「おや、お隣ですか?」。気が付くと大きなキャリーバッグを転がしながら、醇子らの後ろに父娘親子がいる。「あら、またお近くですね。」。「それではまた。」。

部屋で着替えを済ませると、醇子は母親を誘って早速街に出掛けてみる。ここはドイツ語圏なので、習い始めたフランス語を試すチャンスはない。結局世界共通の、馴染みのハンバーガーチェーンに入って初日夕方の散策とする。

 翌日は、アルプスの少女ハイジの村のあるマイエンフェルトへ。アニメや写真、絵本等で見た自然豊かな広大なスケールの光景に興奮する。ツアー客もそれぞれ好きな場所に歩いて行くので、団体ツアーの窮屈さは余り感じられず、自分達だけの観光旅行のようで居心地がよい。心温まる物語が生まれる素地・背景が分かるような気がしてくる。記念に小さな土産屋に入り、可愛らしいハイジのキーホルダーを購入する。草を食む牛を背景に、嫌がる母親をデジカメに収める。

「お二人ご一緒にお撮りしましょうか?」。女の子と手を繋ぎながら、反対側から歩いてきた隣部屋の男性だった。「有難うございます。済みません。」。お礼にと相手のデジカメで父娘親子の写真を撮る。行く先々で少しづつ、いろんな人とこうしたやり取りをしながら知り合いになっていく。

その夜はインターラーケンでのヨーデルのショウを楽しんだ後、ユングフラウヨッホを遠くに臨むホテルに落ち着く。久し振りに口にしたワインが程よく廻って、心地よい気分で二人共ベッドに潜り込んだ。

翌朝かなり早く目を覚ました醇子がバルコニーに出ると、目の前に薄っすらと三大名峰の一つが、朝焼けに中腹だけを浮かび上がらせている。今日は登山電車を乗り継いで、その上まで登ることを想像するとぞくぞくしてくる。

真冬の完全防備をして電車に乗り込む。ガイドの案内に電車内の右側に行ったり左側に移動したりと、歓声を挙げながらデジカメのシャッターを切るツアー客で、異様な興奮状態だ。真っ青な空と壮大なスケールの景観は、デジカメに収めても収めきれない感じの素晴らしさである。

ゆっくりとその間を電車は登って行く。アイガー北壁の中にまで岩盤を刳り貫いて駅を作る凄まじさは、現在の環境破壊問題に照らして考えると複雑な気持ちにもなるが、その場にいると人間のエゴというかそんなことは吹っ飛んでしまい、ただただその壮大なスケールと美しさに感嘆するばかりである。これが偽らざる実感だ。

母親は寒さも忘れてただただ素晴らしいわねの連発である。残念ながらユングフラウヨッホの展望台からは、濃霧で周囲の景観を眺望することは全くできなかった。それでも記念にと、お互いデジカメ写真を取り合う様は、日本人ツアー客ならではの光景である。

下山はアイガーグレッチャー駅で下車して、クライネシャイデック駅までハイキングを楽しむ。8月下旬でも風は冷たい。背丈を低くして、可憐に咲く小さな花を見つけると愛おしくなる。必死に生きているのだ。縦列になって、それぞれに途中でデジカメのシャッターを切ったり、近くにそびえるアルプスの山々を暫し眺めたりと、全体的にゆっくりとしたペースで下りて行く。

1時間半で、広大な山煤の平原にぽつんとクライネシャイデックの駅が現れ、まるで絵葉書のように眼下に見える。ここで一休みして昼食を取り、インターラーケンに戻る。

さらにここからオプショナルツアーの、ロートホルンのSL観光に参加する。澄み切った青空と切り立った山々、広大な緑の絨毯でのんびり草を食む牛、その間を時速30Kmで進むのどかなSL。時間が止まったような、何ともゆったりとした気分になる。左右の窓が開放空間になっていて、童心に返った母娘は、色とりどりの花が近くで触れるたびに歓声を挙げる。同乗のツアー客も一緒になってはしゃぐ。頂上まで登った後は、再度折り返すだけのたわいのない片道30分のコースだが、お伽の国の主人公になったような不思議な体験に、母娘は大満足であった。

 翌日はグリムセル峠とフルカ峠の2大絶景地を経て、氷河特急の駅、アンデルマットに向かう。天井近くまでガラス窓の展望のきく車両に、絶景を期待して胸躍らせながら載ったのだが、氷河の下を走ると知って母娘は些かがっかり。パンフレットの合成写真にすっかり騙されたようだ。

車内では暫し溜まった疲れの解消の場と化し、二人も一眠りと決め込む。

終着駅のツェルマットは、環境の地域として世界にその名を知られている所と聞いている。緊急対応や救急用といった車両の他は、全て電気自動車であり、自転車や馬車まで行き交う不思議な感覚の町だ。夜はレストランを貸し切ってのホンジューパーティとなった。

めいめいリラックスした格好で適当な席に腰を下ろす。ツアーコンダクターの音頭で、ワインを飲みながら順番に簡単な自己紹介を始める。

例の父娘親子の名前が片桐であることは頭に入れた。全員が終える頃には酔いも廻って各自席を移動し、乾杯を重ねる者、写真のフラッシュをたく者、ヨーデルを歌い出す者、ホンジューに食らい付いている者、ツアーコンダクターの女性と旅行の素晴らしさを語っている者と、和気藹々で皆それぞれに心底楽しんでいる感じだ。

醇子と母親はその様子を眺めながら、大いに笑ったり拍手したりとそれなりにエンジョイしている。二人共かなりいい気分になっている。

母親がトイレに立った。「隣の席に座っても宜しいですか?」。女の子を歌うグループに残して、ワイングラスを片手に父親が隣の席にやってきた。醇子も思わずグラスで乾杯の挨拶をする。「片桐さんのお嬢ちゃんは歌がお好きなんですね。」。「丁度同じくらいの年頃の男の子と馬が合っているようです。ツアーが楽しくなってよかったです。工藤さんはお母様とご一緒にご旅行とは羨ましいですね。」。「片桐さんもお嬢ちゃんと海外旅行なさるなんて、きっとよい思い出になりますわ。」。「実は家内が癌で3年前に亡くなって娘が寂しがり、娘も小学校最後の年になったので、心機一転、気晴らしの積もりでこのツアーに応募したんですよ。思った以上に楽しい旅行で娘も大はしゃぎですよ。」。「そうですか、それはお気の毒ですわ。でもお嬢ちゃん喜ばれて本当によかったですわね。」。

醇子は母親の戻りが遅いのに気が付き、「ちょっと失礼します。トイレに立った母の戻りが遅いもので。」。

醇子は慌ててトイレに向かった。洗面台の前で屈み込んでいる母親を見てビックリ。「どうしたの? 大丈夫?」。娘を見て安心したのか、醇子の方によろけてきた。「済みませーん。ツアーコンダクターの方を呼んで下さーい。」。醇子は慌てて洗面台の所から大きな声を挙げた。「どうされました? 大丈夫ですか?」。

醇子の叫び声に最初に駆けつけたのは、先ほどまで隣の席にきて話をしていた片桐だった。片桐は母親の片腕を自分の首に回して身体を伸ばし、パーティ席の椅子に連れ戻してゆっくりと下ろした。ツアーコンダクターが心配してコップに水を持ってきた。周りの客も心配そうに見守っている。「この熱気でちょっとアルコールが廻ったのでしょう。少し冷たい風にでも当たっていれば元気になりますよ。」。片桐は母親の後ろのガラス窓を僅かに開いて外気を取り入れた。

熱気の中に一筋の冷気がほてった顔をスーッと撫でる。気持ちがよい。暫く母親の様子を見ていた片桐は、窓を閉めて言った。「少しは気分が楽になりましたか? もう大丈夫でしょう。もしまだ頭痛がするようならこれを飲んで寝て下さい。翌朝にはすっきりしていますよ。」。「有難うございます。折角皆さんで楽しんでいるところに、こんなことでご迷惑をお掛けして済みませんでした。」。醇子と母親は深々と頭を下げた。

片桐が笑顔で言う。「別にお礼を言われるほどのことではありませんよ。新幹線の中で妊婦さんが、車体のゆれでつまずいた弾みに、頭を打って気分が悪くなった例もありましたよ。たまたま同じ車両にいたので私がケアしてあげましたが。」。半分ほどグラスに残ったワインを口にしながら淡々と話す彼の隣には、何時しか娘の女の子が父親の脇で舟をこいでいた。

話を聞いているうちに、醇子は彼が開業医であることを知った。しかも産婦人科と聞いて驚きを隠せなかった。開業医と勤務医が時間的にこうも違うものかと、一瞬のジェラシーさえ感じた。片桐医師も勤務医をしていたが、交通事故で他界した父親の、個人病院の跡を引き継いでいるのだと言う。普段忙しくて何もしてやれない娘のために、夏休みに合わせて無理して休業している父親の姿を、醇子は複雑な思いで見ていた。

 翌日も天気がよく、醇子はまだ眠っている母親のベッドの脇を通り抜けてバルコニーに出た。朝日に映えたマッターホルンが、写真でで見た通りの雄姿をこちらに向けている。バルコニーと部屋を隔てているガラス扉が開いて、母親が後ろから声を掛ける。「お早う。今朝は気分がいいわ。昨晩は御免なさいね。片桐さんには随分ご迷惑をお掛けして申し訳なかったわね。」。「いいのよ。それよりパジャマにガウンだけのそんな格好で寒くない? 風邪引くわよ。」。「それにしても素晴らしい眺望ね。今日もハイキングをするんでしょう? マッターホルンをこんな近くで見られるなんて、夢にも思わなかったわ。」。母親は醇子の注意をよそに、暫し朝日の加減で微妙に変わる光景を眺めていたが、やがて部屋に戻った。

今日の観光はツアーのハイライト。最高の天気だ。

 登山電車の車窓からの眺めを楽しんでいる

母娘は、まるで子供のように無邪気だ。3130mのコルナーグラートの屋外展望台からは、スイス最高峰のモンテローザや大氷河のパノラマが迫り、思わず歓喜を発してしまう。ミーハーといわれようとも甘んじて受けよう。寒さを忘れて、代わるがわるデジカメのシャッターを切る母娘親子は、背景を選ぶ場所移動に懸命だ。「お二人一緒の写真をお撮りしましょう。」「済みません。」。片桐の声に、母親が昨晩のお礼を言って、娘とのツーショット写真をお願いする。夏と言えどもここは風も強くて体感温度は0℃近い。寒さでかじかんだ手が、カメラを渡した片桐の手に触れる。手袋を外した彼の暖かい感触が、一瞬醇子の指に感じられた。お礼を言ってまた母娘親子は走り廻る。

少し身体を温めるために屋外から建物の中に入る。こんな所にも高級売店があって、1個数百万円もする各種有名ブランドの高級腕時計が堂々と売られている。「一体こんな所まできて誰が購入するのかしら。」と、不思議そうにショーケースを覗き込む母娘親子である。

 帰路は途中電車を下りて、ローテンボーデンからリッフェルベルクまでマッターホルンを眺めつつ、高山植物鑑賞のハイキングに思い切って母娘で挑戦・参加する。冷たい風に頬を赤くしながらも、道端に咲く可憐な花に感動する。

 翌日はシャトル列車とバスを乗り継いで、モンブランを目指してフランスのシャモニーに向かったが、生憎の強風天候で諦めざるを得なかった。フランス語でお喋りできる期待もあったので、これがツアーの唯一の心残りになった。

自然には勝てない。さまざまな軋轢や不条理を我慢すれば、人間の世界は無理を通すことはできる。それが後でさまざまな苦悩を生む。自然の摂理に身を任すのは極めて楽だ。素直に諦める。心残りは絵葉書で解消しようと、近くの土産屋で写真集を記念に購入した。

最後の旅程であるスイスの首都ベルンに向かうバスの中で、その写真集を眺めながら時折窓の外に目をやり、醇子は感慨にふけっているようであった。

気が付けば母親は醇子の方に頭を傾けて寝入っている。疲れが出たのであろう。夕刻ベルンのホテルに到着すると、母親は先に寝ると言って食事も取らずに床に就いた。

スイスツアー最後の夜はホンデューとワインで、さながらお別れ会の様相を呈した。醇子はテーブルで相席になった2人のOLと、ツアーコンダクターの女性とで旅の思い出を語り合っていた。別のテーブルに呼ばれてツアーコンダクターが席を離れ、暫くしてから、母の緊急治療をしてくれた片桐医師が、ワイン片手に同席の許しを得に挨拶にやってきた。2人のOLは盛んにこれまで観光してきた所を、デジカメの液晶画像を覗き込みながらはしゃいでいる。

醇子は軽く会釈して彼を迎える。「お嬢ちゃんはどうされたのですか?」。「疲れてお菓子を口にしただけで寝てしまいましたよ。」。父親らしい優しさを満面にたたえてワインを飲み干す。醇子はさり気なくテーブルに残ったワインボトルを手に取り、彼のグラスに注ぐ。「有難うございます。お母様はどうなされたのですか?」。「実は母も疲れたと言って、食事も取らずに床に就いてしまいましたわ。」。「そうですか、皆さんそろそろ疲れが溜まる頃ですね。ゆっくり休ませてあげて下さい。」。片桐は醇子のグラスが空くのを待って、ワインを注ぎながら淡々と話す。「ホテルに戻った後、もし宜しかったら最上階にあるバーで、少し時間を過ごしませんか。」。醇子は思わぬ言葉に一瞬動揺する。丁度そのとき、席を離れて他のテーブルを廻っていたツアーコンダクターの女性が戻ってきた。「あーら先生、お嬢ちゃんをホテルに残してお一人で楽しんでいらっしゃるんですか?」。ちょっとほろ酔い気分の甲高い声の早口で畳み掛ける。「疲れてお菓子を口にしたらそのまま寝入っちゃいまして。この方のお母様もお疲れになって、床に就かれているとお聞きしたもので、ちょっと気になってお話してました。」。

お喋りとデジカメの写真に夢中になっていた2人のOLも、ツアーコンダクターの声に顔を向ける。「さー、そろそろお開きにしますので、皆さんホテルに戻る仕度をして下さーい。」。ツアーコンダクターの甲高い声が店内に響く。

 「いずれにせよ最上階で一人で飲んでますので、無理されず気が向いたらどうぞ。」。片桐は皆の中に混じって、一緒に店の階段を下りて行く。醇子はツアーコンダクターと2人のOLと共に店を出てホテルに戻った。

母親は死んだように深い眠りの中にいる。醇子はコートを着たまま部屋の照明もつけずに、ソファーに深々と腰を下ろし、カーテン越しに通りのネオンもない薄暗い外をぼんやり眺めていた。

楽しかった母親とのスイス旅行も今夜で終わりか。暫し目を閉じていると、ヒステリックな政弘の姿が醇子の瞼に現れる。折角いい気分で酔いを醒ましているのに。醇子の心は揺れていた。

気晴らしに誘いに乗じて飲みに行っても構わないわ。楽しければいいんだから。醇子はコートを脱いで軽装になると、目立つネックレスに代えて、洗面台の鏡の前で身支度を終えると静かに部屋を出た。何か吹っ切れたような気分で、上に向かうエレベーターを待つ。扉が開く。誰も乗っていない。最上階のボタンを押す。年代を感じさせるエレベーターの上昇音が響く。止まるときの衝撃は、日本のエレベーターのイメージとはまるで違う。薄暗いバーラウンジからピアノの演奏が聞こえてくる。たどたどしい英語で案内の係りに事情を告げると、係員は店内に戻って行ったが、直ぐに戻ってきて醇子を奥のカウンター席に案内した。「あっ、いらして下さったのですね。有難うございます。先ほどのレストランの喧騒とはまるで違った雰囲気でしょう。何を飲まれますか?」。醇子は一瞬躊躇したが、ブランデーを頼む。「お母様のご様子は如何ですか?」。「まだグッスリ寝ていましたわ。」。「そうですか、うちの娘と同じですね。これだけ休養を取れば明日は大丈夫ですよ。」。「そうですよね。元気に帰国したいですものね。」。

醇子は少しずつ口をつけていたグラスを一気に飲み干した。何かの衝動がそうさせる。「随分お強いんですね。」。驚いたような顔付きで片桐は醇子の顔を見る。「ツアーの終わりで何となくセンチメンタルになりますわね。」。返事をはぐらかして独り言のようにポツリと零す。暫し沈黙の後、片桐が口を開く。「何かお仕事はされていらっしゃるんですか?」。思わぬ言葉に醇子はただ一言返す。「今は別に・・・・。」。醇子には、片桐が何となく自分の境遇を嗅ぎ取ったかのように思えた。「ご主人を置いて久々に母娘親子で、鬼のいぬまに何とやらというわけですか。羨ましいというか、男のエゴな立場からは些かご主人が可哀想というか、同情したい気にもなりますね。いや、冗談ですよ。」。「主人は勤務医で片桐さんと同じ産婦人科なんです。普段は忙しくて、主人は病院の近くに単身赴任なんです。色々ありまして・・・・・・。」。思わず醇子の口から本音が漏れる。「何ですって。ご主人は同業者ですか。それは大変失礼致しました。勤務医は休みが無くて大変でしょう。私は家内に先立たれたときは、親の個人医院を引き継いでいたので、こうして娘を連れて旅行に参加できているんですけどね。」。「話が湿っぽくなるので止めましょう。」。醇子は自分から切り出した話をこれ以上続けたくなかった。「ホテルの周辺を歩くとベルンの街並みが楽しめますよ。」。「早朝散歩してみようかしら。」。

突然片桐の携帯が鳴った。彼の娘が目を覚まして連絡してきたようだ。「何かあったら連絡し合うようにしているんですよ。目が覚めたらしいので部屋に戻ります。済みません、お誘いしておきながら途中で退席することになって。」。「どうぞ早く戻ってあげて下さい。私のことはどうぞお構いなく。色々お話できて今夜は楽しかったですわ。」。醇子は複雑な気持ちで彼を見送った。支払いは全て済ませてあるとのことで、暫く醇子はそこで余韻を楽しんでいた。

ピアノの音がまた一段と大きく聞こえる。醇子は2杯目のブランデーを空けてからカウンターを離れた。ピアノの音が小さくなる。エレベーターで下りるときも客はいない。大きな軋み音と共に下降を始める。突然醇子は目眩を感じてぐらついた。壁にもたれかかって何とか部屋の階で下り、自分の部屋に辿り着いた。洗面所で、飲みかけを置いてあったペットボトルのミネラルウォーターを口にするや、その場に暫くうずくまってしまった。

「どうしたの? 大丈夫?」。物音に気づいて母親が起きてきたのだ。醇子は平静を保って「心配ないわ。それよりお母さん気分はどう?」。「かなりお酒の匂いがするけど本当に大丈夫なの?」。醇子の性格を知っている母親は、これ以上何も言わずにベッドに戻った。「明日は朝食の前に近くを散歩しない?」。「そうね。疲れも取れたから早起きするわ。」。母娘はその夜はそのまま話すこともなく床に就いた。

 翌早朝の肌寒い天候に、思わず身体がちじこまる。既にホテルの前の路面電車は早朝の通勤客を乗せて走っている。縦横に路線が走っており、見上げると架線が入り乱れていて、交差点の場所はまるで蜘蛛の巣のようだ。電車が通過するたびに、パンタグラフとの接点でパチパチと火花が飛ぶ。薄暗い通りに花火のような綺麗な閃光が走る。大きな時計台の近くにきたときに、後方から声を掛けられた。片桐が娘を伴って同様の早朝散歩をしている。「お嬢ちゃんも元気ね。」。母親が声を掛けると娘は軽く会釈をして、路面電車の火花に歓声を挙げている。お喋りしながら一緒に歩く。

至る所でごみ収集車が音を立てて回収作業をしている。日本では見られないほうきブラシ回転式の道路掃除車が、ゆっくり車道と歩道の段差の間を清掃しながら通過する。片桐は珍しそうに盛んにデジカメのシャッターを切っている。だんだん空も明かるくなってきた。店におろす商品運搬車があちこちで荷おろし作業に忙しい。街の数ブロックをぐるっと一周した感じでホテルに戻ってきた。

朝食後、ツアーコンダクターの指示に従ってバスに乗り込み、チューリッヒに向かう。顔馴染みになってお喋べりや笑い声がバス内を包む。空港に着いて、各自のキャリーバッグや荷物がバスから下ろされるのを待っているときに、片桐が母親に気づかれないように醇子に小声で、「お礼です。黙ってしまって。」と言ってそっと小封筒を手渡した。醇子は周囲を気にしながら黙ってそのまま受け取り、軽く会釈して手持ちバッグに収めた。

程なく全員の荷物が確認されて、チェックインに向かう。チェックイン後は、各自時間がきたら帰りの飛行機に乗り込み、そのまま成田で自由解散となる。小封筒の中身を気にしながらも、醇子は母親とチョコレート店の品々を物色する。身につける物より、美味しいお菓子の方が二人の趣向には合っている。高級チョコレートを少しづつ購入して、リッチな気分になる。一つだけプレゼント用にするために、別の綺麗な模様の包装紙を購入した。取り敢えず次回政弘に会ったときの物だ。

大きな手提げ袋一杯にチョコレートを詰めて搭乗する。順番待ちでまた片桐親子に出くわした。醇子は「機内で甘い物でもどうぞ。ツアーを楽しくして戴いたお礼です。お嬢ちゃんに。」と言って、片桐に先ほど購入したチョコレートを差し出した。多分父娘親子もチョコレート類は土産に購入しているかもしれないが、醇子にとってはその場を取り繕う、とっさの振る舞いであった。父娘親子のお礼の言葉にゆっくり対応する間まもなく、ゲート通過の順番をせかされて、そのまま母親の後を追う。席を見つけて座れば一安心である。

 醇子は離陸後も暫く目を閉じてじっとしていた。母親が備え付けの雑誌類を見終わって、動く気配が感じられなくなった頃に、醇子は目を開いて静かに手持ちのバッグ゙から例の小封筒を取り出し、メモに目を走らせた。帰国後いつか都合のよい日に一度会いたいという内容で、彼の住所と携帯電話番号が添えられている。慌ててそのメモを封筒に入れ直してバッグに戻す。思わず目を閉じている母親の方を横目使いに見る。一瞬頭の中が真っ白になった感じだ。思いもよらない内容に、暫く動揺が収まらない。飲み物が配られるときになって、やっと落ち着きを取り戻した。取り敢えず忘れよう。醇子はワインを頼んで気分転換を図ることにした。母親は日本茶を無言で啜っていたが、お互い会話を交わすこともなく、ヘッドホーンを耳にしながら夕食の機内食を待つ間、暫し自分の世界に浸っていた。

 

第5話「二重の苦悩」

 帰国してあっという間に1週間が過ぎた。旅行中に政弘から何度も留守電が入っている。ただ醇子には、現実に戻って気持ちをリセットするにはまだ時間が必要だった。敢えて返事をせず、進展のないままただ時間だけが経過する。

余程忙しいのか、それとも長期不在を察したのか、帰国してからは電話は掛かってこない。一方で片桐のメモが頭をよぎる。気晴らしにと、当てもなく午後ぶらりと外出する。

三軒茶屋で足の向くまま東急世田谷線に乗り換える。片桐のメモの住所に誘導されるように、松陰神社前で下車する。商店街を抜けると松蔭神社が近くにある。吉田松陰ゆかりの神社にしては、比較的個人まりした静かな所だ。驚いたことに、隣の極めて狭い敷地に元陸軍大将桂太郎の墓がある。その隣は世田谷区の公園で、更にその隣は私立大学という立地である。大学の通りを隔てた正面は区役所であり、住宅街も広がっている。

醇子は初めての場所を散策しながら、自然と片桐の表札を探しながら歩いている自分にハッとする。

あった。片桐産科・婦人科医院とある。高まる胸の鼓動を抑えながら、小走りにその前を通り過ぎる。立派な個人病院だ。醇子は人目を気にしながら、何か妙な後ろめたさを感じて大通りに出た。

丁度通り掛かったタクシーを止めて渋谷に向かう。別にこれといった用はない。足は自然とデパートに向かう。一階のまばゆいばかりの照明の化粧コーナーを横目に、中ほどのエスカレーターに乗り込む。自然と婦人服コーナーに足が止まる。ゆっくり歩きながらカラフルな洋服を目で追い、気に入ったワンピースの前で足を止める。それとなく袖や裾に触れて感触を確かめる。店員が試着を薦めに声を掛けると、軽く会釈をして手で遠慮のポーズを取りながらやんわりと断る。

平日なのでそんなに混んでいるわけではない。醇子と同じように洋服を目で追いながら、ゆっくり歩いているご婦人も何人かいる。日差しを避けるための鍔の広い帽子が目に留まる。黒っぽい帽子を被って鏡に向かう。幾つか試着してみる。気に入った帽子を手に取ってレジカウンターに持って行く。型崩れしないように大層な円筒状の箱に収めて手渡されると、大袈裟な買い物をしたようで些か気恥ずかしい。ハンドバッグと帽子の箱を抱えながら、更に上の階に足を向ける。ベビー用品が目に留まると、醇子の足は自然とそれに向かう。見えない何かに頷きながら、ゆっくりと足を進める。ちょっと年を召した洒落た感じのご婦人が、ベビー服を物色している。孫か知り合いのお祝いにと、このコーナーにきているのであろうか。服装といい着こなしといい、気品を感じる。勝手な憶測をしながら色々歩き廻り、小一時間はぶらぶらしていただろう。上の階に上がった所で見つけた喫茶室にホッとする。

一休みしよう。甘いケーキが気だるさを助長し、濃い目のブラックコーヒーが反対にそれを崩して、目を覚ましてくれる。一時ぼんやりしていたが、腕時計に目をやり注がれた冷たい水で喉を癒すと、今度は地下に下りて行った。夕方近くになったのか、流石にデパ地下は女性の買い物客でごった返している。

大きな帽子箱が邪魔になる。人混みで潰されないようにと、手前に抱えての食材巡りである。奥の方で人だかりがしている一角に近づくと、各地の人気駅弁を売っている。懐かしい横川の釜飯を見つけて思わず2つ購入する。サイズは小さいがずしりと結構重い。何とちぐはぐな格好でデパートを出ることになったものだ。ぶらりと用もないのにデパートに立ち寄ると、いつもこうなってしまう。

自分はつくづく普通の主婦であることを実感する。でも現在の置かれた状況は、とても普通の家庭専業主婦には似つかわない不遇な女だ。会社勤めの人達の帰宅ラッシュの電車に乗り込むのを避けて、帰宅路もタクシーを利用することにした。総合商社で男性顔負けのキャリアウーマンとして、独身会社時代を謳歌していた頃のことが蘇る。携帯で母親に帰宅時間を連絡する。

帰宅すると母親は味噌汁を用意してくれていた。子供の頃スキーに連れて行ってもらう往復時、横川駅でよく釜飯を買って食べたものだ。少々塩辛い感じだが昔の味が思い出される。

 

第6話「流れるままに」

 数日後政弘が、今後の対応は弁護士に全面的に依頼したとの話を伝えてきた。それを聞いて醇子はむしろホッとした。政弘のヒステリックな言動とはっきりしない態度に、これまで振り廻されてきたことから、少しはその悩みから開放されるだろう。醇子は政弘との接触に関する報告を、その都度していたボランティアの弁護士にその旨を話し、以後弁護士間での話し合い決着で、スムースに進展するよう依頼した。

醇子は政弘の理不尽さを何とか理解しようと努めてはいるものの、少しづつ心境の変化を感じ始めていた。政弘のかたくなな態度は、堂々巡りはすれども、結局は離婚して現状の苦悩から逃避したいというのが帰結だろう。

でも勤務医に就くまでの期間の彼の生活を、金銭的に支えてきた私の立場も少しは気遣って欲しい。会社勤めを辞めている現在、これまでの残り少ない蓄えと父の遺産だけでは、母を含めた今後の人生設計は厳しい。

別に慰謝料を要求しようというのではない。どうしても離婚の道に進まざるを得なと言うなら、少なくともお互いが納得し合える形にしたい。醇子は敢えて政弘の苦悩を理解しようとするも、一方で理不尽な政弘の帰結に客観的保障を望む、もう一方の醇子との自問自答が続く。

意思疎通が回復できないままの現状がいつまで続くのだろうか。弁護士同士による純粋に法的なドライな結論も怖い。醇子は考えれば考えるほど胸がキリキリ痛むのを抑えられなかった。

 それから数週間経ったある日の午後、居間でフランス語会話の教材に目を通していた醇子に、母親が郵便受けから一通の手紙を持ってきた。役所で紹介されたボランティアの弁護士からだった。政弘の弁護士と初めて会って話を聞いた内容であった。相手の弁護士によれば、政弘自身離婚の理由が自分でもよく分からなくなっていて、精神分裂症的な発言が多く論点を抑えられない状況だと言う。その一方で、それなりの金銭的支払いはしたいとのこと。矢張り精神科でのリハビリを受けながら、政弘の精神的安定の回復を気長に待って、もう一度二人でじっくり話し合う方がよいのかもしれない。醇子もまた堂々巡りの渦中に引きずり込まれる。この堂々巡りを断つために、第三者たる弁護士に依頼したのではなかったのか。

翌日醇子は弁護士に会って、暫くこのまま冷却期間を置いて静観し、政弘が冷静に判断でき、かつ離婚理由を双方が納得のいく形で受け入れられる状況になるまで、もう一度だけ最後のチャンスとして待ちたい旨伝えた。

離婚に対する不安・怖さ、世間体というものが重苦しくのし掛かる。これが醇子の今置かれた、偽らざる心境だった。

 フランス語会話教室に通い始めて半年が経った頃、偶然例の商社秘書室に勤務する女性に出会った。この秋に、会社のフランス事務所に2年間赴任することになったので、先生へのお礼と退学願いを申し出にきたのだと言う。話は興味深く、双方共時間があったので、帰りに喫茶店に立ち寄ることにした。

彼女は醇子より4、5才年下だが、考えもしっかりしている。横浜のマンションに年下の男性と同棲していると聞いて驚きを隠せなかったが、2年間彼をほったらかしてでもこのチャンスを果敢に活かして、自分の可能性を試したいと言い切る。そのためには無理してまで子供を持ちたいとは思わない。たった4、5年でこうも違うものかと、煮え切らない今の自分が歯がゆくなる。醇子もその場の勢いで、かつて総合職の企業戦士として働いていたこと、そして現在勤務医の夫と別居状態にあって、気を紛らわすためにこの会話教室に通っていることを一気に話した。彼女は別に驚いた様子も見せず、醇子が会社を何故辞めたのかに興味を示して質問してきた。

彼女と余りにも価値観、考えに違いがあることに気後れして、醇子は彼女の納得を得られるような旨い説明ができなかった。そのことを彼女はそれとなく悟っているかのようであった。

二人はそれなりに満足して、お互い秘めたるエールを贈り合うようにして別れた。醇子は何か吹っ切れたような、ある種の爽快感に包まれて帰路に就いた。

 翌日はいつもより早く目が覚めて、母親が用意する朝食を久々に醇子が並べる。昨晩は不思議と熟睡できて気持ちよく起きられたのは、彼女との会話が心地よい刺激として快眠に繋がったのかもしれない。

「今朝は快調のご様子ね。」。母親がひょうきん交じりに朝の挨拶を投げ掛ける。「久々にグッスリ寝て早起きしたわ。」。「何かいいことあったのかしらね。」。「そうかもね。」。たわいもない朝の会話が、お互い元気なシグナルである。朝刊に一通り目を通した後、2階の部屋に戻った醇子は、片桐宛にメモの返事を手紙に書いて封筒に収めた。

 午後から醇子はまたぶらりと外出したくなった。夕方から夜にかけて雨模様の天気になることを、テレビの天気予報が伝えている。それでも醇子を外出に駆り立てる何かが背中を押している。ジーンズに短めのコートを羽織った身軽な出で立ちで出掛ける。

今日は前回と違ったルートで行ってみよう。不思議と躊躇することなく目的地に足が向かう。新宿から小田急線で豪徳寺に出て、東急世田谷線に乗り換える。本当にこの近辺には寺が多い。今回は逆ルートなので松陰神社前駅の一つ手前の駅で下車してみる。

大きな通りを避けて脇道に入ると、とたんに静かな雰囲気になり、閑静な屋敷も点在している。特に世田谷区は、歩いていて方向が分からなくなるほど道が入り組んでいる。世田谷区をカーナビメーカーが、試験走行の確認に利用する理由が何となく分かる。

醇子はおおよその見当をつけながら、前回きたときの周囲の光景を、記憶を頼りに探す。付近に目印となるようなものが存在しないので、何処を歩いているのかよく分からない。

暫く進んで四つ角に差し掛かったとき、例の片桐医院の白い看板が左手の方に見えた。急に胸の高まりを覚える。手提げバッグから片桐への返信手紙を取り出して歩みを速める。近くにきたときに、一人の女性が医院から出てきて醇子の方に歩いて来る。慌てて手に持った手紙の封筒を手提げバッグの裏側に隠し、下向き加減ですれ違う。先の四つ角まで後ろを振り向くこともせず、そのまま歩みを速める。四つ角でUターンをして様子を伺い、人気のないのを見計らって今度は逆方向から歩いて行く。今度は前方から自転車が来る。すれ違った後ろを素早く確認する。コート姿の女性が目に入る。やむなくまた医院を横目に通り過ぎる。

気が付けば封筒を持った右掌は汗をかいている。醇子は諦めて松蔭神社前駅の方に向かう。喉が無性に乾く。住宅街では喫茶店が見つからない。歩き廻ったあげく、区役所地下に食事所を見つけて一休みする。冷たいソーダ水が乾いた喉を潤す。

一体全体自分は何に脅ええているのだろう。何をしにきたのだろう。一時、醇子はぼんやりしていたが、コップの水を飲み干すと店を出た。少し雲行きが怪しくなって小雨がぱらついているようだ。傘を差してまた片桐医院の方に向かう。薄暗くなれば人目も気にならなくなるかもしれない。しかも傘で隠せば顔を見られることもない。醇子は意を決したように早足で片桐医院へ向かう。

通りに人影はない。白い看板が蛍光灯で明るく浮き上がって見える。早足で看板の横の郵便受けに目をやると、夕刊が押し込まれている。手に持った片桐宛の手紙を郵便受けに入れる段階になって、一瞬手が止まった。ここにきて何かが抑制意識を呼び覚ます。年相応の普通人の常識なるものが、頭をもたげて逡巡する。

切手を貼って郵送しよう。切手も貼らずに直接郵便受けに入れるのはおかしい。相手は私を異常な人間と錯覚するだろう。手紙を素早く手提げバッグに押し込んで、一目散にその場を立ち去る。異国で醇子のすきま風に紛れ込んだ片桐の何気ない誘いが、肉体的・精神的喜び・癒しを与えてくれる妄想をかき立てたことは、今の醇子にとっては自然の成り行きかもしれない。一瞬の逡巡が理性の世界に醇子を引き戻す。醇子はタクシーを何処で拾ってどのルートで帰宅したかよく覚えていない。

 翌日改めて手紙の内容を読み返す。現状では政弘とは修復しがたい関係に陥っているにも関わらず、冷静に読み直すと思わず手紙を破りたくなるほど恥ずかしい。よくもこんなことが書けたものだわ。分からない。

 昨晩から降り続いている雨に外の肌寒さを感じながら、手紙を握り締めてぼんやり雨滴の落ちる窓ガラス越しに外を眺める醇子の姿は、混沌の行き着く先を暗示しているかのようである。

どんなに空っ風の強い冬の夜でも、この2階の部屋には決して冷たいすきま風は入ってこないのに・・・・・。

 

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