第28回日本森田療法学会 発表原稿
一般演題/セッションテーマ:フィールドの拡がり
   「 かくあるべしに縛られない生き方を目指す、グループワークの試み」
   ・・相互受容の場と森田原著学習の複合型自助活動・・
                                           森田ピアスクエア 竹林耕司

神経質症の症状や悩みを一通り抜け出した後も、日々の生活の中で、生き辛さや窮屈感、劣等感などを抱える人たちも少なくありません。
また、そこから来る漠然とした自己否定感で、苦しむ人も多いと感じています。
そこで、森田を学び、その本質に深く触れながら、日頃の思いを心から話せる場所はないか、素直に何でも話せて、アドバイスも指示もなく、ただ聴いてもらえる環境はないかという思いで、相互受容をベースに自由に話し合える場と森田学習を併せ持つ、複合型のグループワークを始めてみました。
この活動は、間もなく始めて2年になります。
複合型というのは、二つの活動を有機的に組み合わせたと言うことで、具体的には、月一回の森田原著学習会と、そのメンバーを核としたグループ交流会です。
では、それぞれの会についてご紹介をしましょう。
まず、原著による読書会。
毎回、約1時間半から2時間をかけ、現在は、神経質の本態と療法を用いて、とらわれの仕組みを学ぶだけでなく、思想の矛盾に至る、自分の感情への反応を学んでいます。
ここでは、文章の解釈や解説を避け、書かれていることをヒントに、各自の体験から、できるだけ具体的な内容の話し合いを行っています。
各自が体験の中で何を感じ、その時々の感情にどうとらわれてきたか。
純な心をそのまま感じ取れた瞬間は、どうだったかなど、実際を振り返りながら、そこからの気付きを通して自分の心の事実に触れることができるように進めています。
理解することよりも、感じ取ることに重きを置き、そして、自分だけでなく、グループの中での疑似体験で、お互いの気付きを共有することもできています。
一方のグループ交流会は、読書会の気付きをそのまま引き継ぎながら、同じ日の午後の半日を使って進めています。 
先ほどの読書会のメンバーを含みながらの、自由な話し合いです。
ここでは、参加者の悩み、近況、実際にあったことやそこで感じたこと、辛かったことなどを具体的に出し合います。
この交流会は、どこまで行っても相手を尊重する姿勢と、共感、受容をベースとした場です。
ここでは何を話しても構わない。
否定しない、反論しない、議論しない、もちろんアドバイスもないという原則を貫き、とにかく聴き、受け止めることを目指しています。
それによって、徐々にではありますが、普段は話せないことまで出始め、それまで自分で強く否定してきた素直な感情を、心の事実として、価値評価せず、そのまま認められる様になってきます。
ここでは、読書会で得た、事実を感じる姿勢が有効に作用しています。
参加者は、この話し合いを続ける中で、長年蓋をしてきた感情も、実は単なる事実としてそのまま感じても良かったのだと言うことに気付きます。
ここで出し合う話が、原著学習会での気付きに裏付けられていることもあり、読書会に出ていないメンバーも、まるであたかも一緒に学習してきたかのように体得が進みます。
この二つの場を通して、少しずつ自分が変わり、変わりながら更に自分のことを話し、人の話を聴き、話して聴いての繰り返しで、本来自然である感情を、そのまま、心の事実として、良いも悪いもなく、受け止められるようになってきました。
そして長年自分を縛っていたかくあるべしからだんだん自由になってきているのです。
私たちは、ここから、思想の矛盾の解消が実現するのではないかと思っています。
ではここで、初期から参加しているメンバーの、変わってきた事例を紹介します。
(一部略)
当初の症状は長年の吃音でしたが、森田を学び、仕事を通しての目的本位、行動主体の努力で、吃音で悩むことは減少してきました。
でも、その後も長年漠然とした不全感に悩み、休日など仕事を離れている時に、そのままではいけないという思いで、次から次へと隙間なく時間を埋めていなければ気が済まない状況が続いていました。
何かに没頭しても、満足することなく、あれもこれも手を出しながら、自分に納得がいかず、結局自己否定感にさいなまれていました。
彼はまず、この交流会に参加して、徹底した受容の場で自分の状態を受け止めることができ、モヤモヤとしている不全感に対して、肯定も否定もない事実として接することができてきました。
また、森田原著に触れ、症状の元にある思想の矛盾に気付き、日々の生活の中で「事実を見る目」が養われてきました。
今まで無理に打ち消していた、職場の後輩の業績に対する嫉妬心も、心の事実として自然に認めることができるようになり、長年自分を縛っていたかくあるべしが、軽くなってきています。
このように、徹底した共感受容の場で、観念の世界でもがき苦しんできた中から、事実という物を感じ取ることができるようになってきたわけです。
私たちは、「受容の場だからこそ実現した、事実を感じる目の体得」として、この事例はとても大きな意味を持つと思っています。
それでは、ここで、実際の原著学習会での実例を紹介しましょう。
この学習会では、まず短い項目を輪読し、簡単な質問の後は、自由に気付いたことや感想、自分の体験で感じてきたことなどを出し合います。
では、本態と療法に書かれている、「純な心」を学習したときの感想です。
・子供の就活に関わっているが、毎日色々な大変な状況が続き、純な心がどんどん浮かんできて、いちいち気持ちをいじくっていたらきりがない。
 ちょっとパニックになったり、子供がふがいないと感じたり、湧いてくる気持ちはどうにもならない、そのまましかないという体験をしている。
・司会をやっている時に、みんなの意見が割れてどうしようかと迷ったが、自然に自分は分からないと言えることができた。
 事実を素直に感じられると、周囲の変化に順応できるようになる。
 ちゃんと見えるし、聞こえるし。
・嫌いな相手に良いところが見えた時、それを認めたくないと思ってしまう。
 そんなはずはない、どこか良くないところがあるはずと決めつけてしまう。
 素直に自分の直感を認めず、こうであるべきという観念に強く支配されているのだろう。
・会社の後輩に対して嫌いな気持ちがあって、先輩だからこんな思いを持つのは良くないと思っていたが、最近は、嫌いは嫌いと思える。
・自分は、どうも、子供に対していつも優しい訳ではないと思うことがある。
 でも、湧いてくる純な心に対しては、否定も肯定もない、しかたない。
 そのままでしかないと思っていると、自分はどんな人間か判ってくるような気がする。
 自覚ができる。
・本にあるウサギの話で気付いたが、どうしても自分は人の目を気にしてしまう。
 実際の相手、対象に目を向けているかどうかが大きいと思った。
・時間が余っている時は、次から次へと観念がからんできて、特に土日などは辛い。
・観念の世界に突入するか、事実を見る状態でいられるか。 
 この境目がいつも変化していているが、忙しい時はその境目が、より事実を見られる方に寄ってきているような気がする。
・最近は、悶々としている感じがそのままで自然で、だんだんその状態に慣れてきて、気持ちや事実が 流れていることすら、考えなくなってきた。
・以前、もっと神経質になりましょうと言われたことがあり、無神経と言われたような気がして顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 でもそのとき、自分の言動には目が向いていなかった。
・掃除機をかけている時などに、思わず人生とは? などと考えてしまうが、ゴミを見つけて吸い上げる瞬間は、事実の中に入り込んでいる。
これらはほんの一例ですが、このように、本にかれていることはどんどん離れて、感じるままに、自由に思ったことを出し合っています。
みなさんは、こんなやり取りで、はたして勉強になるのかと思うのではないでしょうか。
でももちろん、感想には正解もなにもありません。
むしろ、このように自由に感情を出し合うことで、型にはまった解釈ではなく、生活に基づいた広い視野での気付きが生まれる様な気がしています。
実は、交流会の方でも、いつも全員の辛い話しばかりという訳ではないので、時にはまるで世間話のような時間もあります。
その様な雰囲気でも、森田学習をベースとした、共感受容を前提の世間話は、そこから感じ取ることが山ほどある貴重な場となっています。
この森田ピアスクエア。
読書会と交流会は月一回ずつ行っています。
その間をつなぐものとして、インターネットの掲示板でコミュニケーションをとりあっています。
また半年に一回、広く案内をして森田学習や周辺のテーマでの公開セミナーを行い、多くの方々に参加いただいています。

本日のこのセッションのテーマである、「フィールドの拡がり」の通り、生活の発見会をはじめとする、各地域での自主的な集まりや学習、イベントなど、多種多様な活動で、日本中の森田学習の裾野が広がり、それぞれの活動の特性をいかしながら連携を取り合い、少しでも悩める人たちの心の解放の場作りにつながればと考えています。
                                                 以上